DATE2026.07.13 #Press Releases
超高速量子メモリ動作を引き出す素子設計
―熱に頼らない高効率な磁気情報の書き込みに向けて―
発表のポイント
- 量子効果により、超高速・超低消費電力なスイッチング動作を可能にする反強磁性体が、次世代不揮発性ロジック・メモリ向けの新しい磁気記録層材料として注目されている。
- カイラル反強磁性体Mn3Snと重金属からなる素子において、磁性層を薄くすることで、熱によるスイッチング機構を抑え、スピン流が磁気秩序を直接書き換える高効率な量子スイッチングが実現できることを明らかにした。
- 本成果は、素子形状の最適化により、温度上昇と消費電力を抑えた高速な磁気記録が可能になることを示し、反強磁性体を用いた超高速・低消費電力ロジック・メモリの素子設計に重要な指針を与える。

Mn3Sn/重金属(HM)素子におけるスピン流を用いた二つの磁気スイッチング機構。内因性機構によるスイッチングでは電流印加時にスピン流が磁気秩序に直接作用するのに対し、温度アシスト機構によるスイッチングでは電流印加中に磁性秩序が失われる。
概要
東京大学大学院理学系研究科の松尾拓海大学院生(研究当時)、肥後友也特任准教授(研究当時)(現:慶應義塾大学 理工学部 准教授)、中辻知教授らを中心とする研究グループは、次世代の超高速・低消費電力ロジック・メモリ向け磁気記録層材料として期待される反強磁性体において、スピン軌道トルク(SOT)(注1)による磁気状態の電気的スイッチング機構を、膜厚や放熱性を含む素子構造によって制御できることを明らかにしました。特に、発生した熱を効率よく逃がすことで、ジュール熱に頼らず、反強磁性体が本来もつピコ秒(1兆分の1秒)スケールの高速な磁気ダイナミクスを活かしたスイッチング機構が引き出せることを示しました。
本研究では、カイラル反強磁性体Mn3Sn(注2)薄膜を用いた素子において、SOTによる磁気記録特性がMn3Snの膜厚によってどのように変化するかを調べました。その結果、膜厚を薄くして発熱の影響を抑制することで、磁気スイッチング機構が、発熱と冷却過程に支配される「温度アシスト機構(注3)」から、スピン流が反強磁性秩序を直接制御する「内因性機構(注3)」へと移行することが明らかになりました。内因性機構による書き込みでは、反強磁性体の高速な磁気ダイナミクスを活用できるため、温度アシスト機構よりも短い電流パルスでのメモリ動作や、大幅な省エネルギー化が期待されます。本成果は、反強磁性体の超高速磁気ダイナミクスを活用した新しい不揮発性メモリ技術の実現に向けた重要な基盤となるものです。
本研究成果は、2026年7月13日付で国際科学雑誌『Nature Communications』のオンライン版に掲載されました。

図1: (左)研究に用いた反強磁性体Mn3Sn /重金属Ta多層膜。アルミナAlOxはキャップ層。tはMn3Sn層の膜厚。(右)Mn3Sn /Ta多層膜スイッチング素子の顕微鏡像。I+とI-は電流端子、V+とV-は電圧端子。
発表内容
1.研究の背景と経緯
AIやビッグデータの活用が広がり、膨大なデータを高速かつ低消費電力で処理・記憶できる次世代ロジック・メモリ技術の重要性が高まっています。現在の半導体ベースのロジック・メモリでは、情報を保持するための消費電力や、大量のデータを高速に読み書きする際の消費電力・発熱が課題となっています。この課題を解決する候補として、磁気状態を情報として用いる不揮発性磁気メモリ(MRAM)が注目されています。近年では、MRAMをさらに省電力・高速に動作させる磁気記録層材料として、ピコ秒域の高速な磁気ダイナミクスを示す反強磁性体の活用が期待されています。
本研究で用いたカイラル反強磁性体Mn3Snは、反強磁性体でありながら異常ホール効果(注4)やトンネル磁気抵抗効果(注5) などの応答を示し、磁気状態を電気的に読み出しやすいという特性をもちます。これまでに、Mn3Snへスピン流を注入し、SOTにより「0」と「1」の情報に対応する磁気状態を電気的にスイッチングできることも実証されており(Nature 誌 580, 608 (2020); Nature 誌 607, 474 (2022).)、ピコ秒級の磁気ダイナミクスを活かした超高速・高効率動作が可能なメモリ向けの磁気記録層材料として、活発に研究が行われています。
一方で、最近の研究から、Mn3SnのSOTによる磁気スイッチングでは、スピン流による直接的な制御「内因性機構」だけでなく、電流印加時に生じるジュール熱が大きく寄与する場合があることが分かってきました。この「温度アシスト機構」では、発熱によって反強磁性秩序が一度失われ、その後、素子が冷える過程で最終的な磁気状態が決まります。この機構では熱の発生と冷却に時間を要するため、スイッチングプロセスの完了には100 ナノ秒(10億分の1秒)程度の時間が必要となると考えられており、反強磁性体で期待されるピコ秒級の高速な磁気ダイナミクスを活かした磁気記録の妨げとなることが懸念されます。そのため、ジュール熱に頼らず、スピン流によって非熱的に磁気秩序を制御する条件を明らかにする必要がありました。
2.研究の内容・成果
本研究では、Mn3Snの膜厚tを15 ナノメートル(nm)から200 nmまで変化させた反強磁性体Mn3Sn /重金属Taの多層膜を、スパッタ法を用いてシリコン基板上に作製しました(図1)。さらに、これらの膜をホールバー形状に微細加工し、SOTによる磁気状態のスイッチング特性を系統的に調べました。その結果、厚いMn3Sn層をもつ素子では電流を流した際に発生するジュール熱が書き込みを助ける温度アシスト機構が支配的であるのに対し、膜厚が30 nm以下程度まで薄くなると、温度上昇や消費電力が抑えられ、温度アシスト機構では説明できない低い電流密度で磁気状態をスイッチングできることが分かりました(図2)。
この結果は、Mn3Sn層の膜厚が、SOTによる書き込み機構を決める重要な要素であることを示しています。膜が厚い場合には、電流によって発生した熱が磁気記録層に蓄積しやすく、転移温度以上への温度上昇で磁気秩序が一度消失した後、それが冷える過程で最終的な磁気状態が決まります。この時、SOT書き込みに要する電流密度は磁気記録層の厚さtの-0.5乗に従います(図2 左, 図3)。一方、膜を薄くすると、発生した熱が基板側へ逃げやすくなり、反強磁性秩序を維持したまま、SOTによる磁気スイッチングが可能になります。その結果、薄いMn3Sn素子(t ≲ 30 nm)では、非熱的、かつ、高効率な内因性機構が顕在化したと考えられます。すなわち、薄型化によって熱を効率よく逃がすことが、反強磁性体本来の高速な応答、量子スイッチング特性を引き出す鍵であることを明らかにしました。

図2: (左)Mn3Sn(15-200 nm)/Ta(5 nm)多層膜におけるSOT反転電流密度(スイッチング電流密度)のMn3Sn膜厚依存性。ピンクの曲線は温度アシスト機構においてスイッチング電流密度が従うと予想される理論曲線。(中央)SOTでの磁気スイッチング観測時に印加した電力のMn3Sn膜厚依存性。(右)SOTでのスイッチングに必要な電流の印加時にデバイスが到達する温度の計算結果。

図3: 内因性機構、および、温度アシスト機構によるSOTによる磁気スイッチングに必要と予想される電流密度の磁性膜厚依存性の模式図。両者が交わる磁性層の膜厚tcより薄い膜厚領域では、内因性機構によるスイッチングが主要となる
さらに、最も薄い15 nmのMn3Sn素子では、電流パルス幅を100 ミリ秒から10 ナノ秒まで変えてもスイッチングに伴い変化する電気信号の大きさが変わらないことを示しました(図4)。これは温度アシスト機構を報告した先行研究における、100 ナノ秒より短いパルスでは信号の反転率が減衰する実験結果とは定性的に異なっており、薄いMn3Sn層の素子において内因性機構によるSOT反転が実現していることのさらなる証拠と言えます。

図4: Mn3Sn(15 nm)/Ta(5 nm)素子におけるSOTによりスイッチングした異常ホール電圧の電流パルス幅依存性。黒線は100 ミリ秒(ms)のパルスを用いた場合の値を示す。
3.波及効果、今後の展開
本成果は、反強磁性体を用いた次世代MRAMにおいて、超高速スイッチングを実現するための素子設計指針を示したものです。Mn₃Sn層の膜厚を薄くし、発生した熱を効率よく逃がすことで、反強磁性秩序を保ったまま、スピン流によって磁気状態を直接書き換えられることを明らかにしました。この知見は、並行して進められたMn₃Sn薄膜素子における数十ピコ秒級の電気パルス書き込みや時間分解観測による高速スイッチング過程の理解の研究(Science誌 392, 761 (2026); Nature Materials誌 25, 434 (2026), Physical Review Materials 誌 10, 044405 (2026).)にも活かされています。また、JST未来社会創造事業で推進されているスピントロニクス技術と光電変換技術を融合した次世代デバイス開発において、反強磁性層の膜厚設計がピコ秒台の超高速スイッチングおよび低消費電力動作の実現のために重要であることを示すものです。
本研究では膜厚に注目しましたが、実用的なMRAMでは素子サイズがマイクロメートルからナノメートルスケールへと小さくなるため、素子の熱容量が小さくなり、発生した熱も逃げやすくなることが期待されます。したがって、今回見いだした膜厚・放熱性の設計指針は、微細化されたMRAMの素子において、Mn₃Snのような反強磁性体を超高速・低消費電力・高耐久な磁気記録層材料として活用するうえで重要な基盤になると考えられます。
発表者・研究者等情報
東京大学
大学院理学系研究科 物理学専攻
松尾 拓海 博士課程学生(研究当時)
現:ジョンズ・ホプキンス大学 博士課程学生
肥後 友也 特任准教授(研究当時)
現:慶應義塾大学 理工学部 電気情報工学科 准教授
兼:東京大学 大学院理学系研究科 客員共同研究員
Hanshen Tsai 特任助教
松田 拓也 特任助教(研究当時)
現:大阪公立大学 大学院理学研究科 准教授
上杉 良太 博士課程学生(研究当時)
現:茨城大学大学院 理工学研究科 助教
中辻 知 教授
兼:同大学 物性研究所 特任教授
兼:同大学 トランススケール量子科学国際連携研究機構 機構長
兼:ジョンズ・ホプキンス大学 Research Professor
兼:カナダ先端研究所 フェロー
物性研究所
浜根 大輔 技術専門職員
三輪 真嗣 准教授
大谷 義近 教授(研究当時)
現:東北大学 理学研究科 教授
理化学研究所
創発物性科学研究センター
近藤 浩太 上級研究員(研究当時)
現:大阪大学 先導的学際研究機構 准教授
兼:東京大学 大学院理学系研究科 客員共同研究員
論文情報
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雑誌名 Nature Communications 論文タイトル Crossover between intrinsic and temperature-assisted regimes in spin-orbit torque switching of antiferromagnetic order著者 Takumi Matsuo†, Tomoya Higo†,*, Daisuke Nishio-Hamane, Takuya Matsuda, Ryota Uesugi, Hanshen Tsai, Kouta Kondou, Shinji Miwa, Yoshichika Otani, Satoru Nakatsuji*(†: 共同筆頭著者, *: 責任著者) DOI 10.1038/s41467-026-74311-6
研究助成
本研究は、科学技術振興機構(JST)未来社会創造事業 大規模プロジェクト型「スピントロニクス光電インターフェースの基盤技術の創成」(課題番号:JPMJMI20A1)、先端国際共同研究推進事業(ASPIRE)「トポロジカル物質に基づく革新的量子エレクトロニクスの創成」(課題番号:JPMJAP2317)、戦略的創造研究推進事業 さきがけ「トポロジーと磁性に基づく革新的半金属材料の創製」(課題番号:JPMJPR24M8)、科学研究費助成事業(課題番号:JP24K00581, JP22H00290, JP25H01252)などの一環として行われました。
用語解説
注1 スピン軌道トルク(SOT)
電流に伴う電荷の流れを、スピンの流れ(スピン流)へと変換し、そのスピン流を隣接する磁性体に注入することで、磁気秩序を制御する手法です。注入されたスピン流は、磁性体内部のスピンの向きを変えようとするトルクを生じます。このトルクをスピン軌道トルク(SOT)と呼びます。電流からスピン流への変換には、一般にスピン軌道相互作用が大きく、変換効率の高いタンタル(Ta)や白金などの重金属が用いられます。 ↑
注2 カイラル反強磁性体Mn3Sn
電子はスピンと呼ばれる自由度をもっており、物質中の磁性の起源の一つとなっています。物質を構成する原子内でのスピンの並び方によって、磁性体はいくつかの種類に分類されます。一般に磁石として知られている強磁性体ではスピンが同じ向きに揃い大きな磁化の値を示しますが、反強磁性体ではスピン同士が互いを打ち消し合う方向を向き、全体としては磁化がほぼゼロとなります。一般的な反強磁性体では、スピンが反平行を向くことで打ち消し合っており、コリニア反強磁性体と呼ばれています。一方、Mn3Snは図5に示すようなカイラル反強磁性秩序をもっています。この反強磁性秩序は、図中のピンク色の矢印で表されたクラスター磁気八極子によって記述されます。このクラスター磁気八極子は、強磁性体における磁化に類似した対称性をもつため、Mn3Snでは、異常ホール効果や磁気光学カー効果など、通常は強磁性体でのみ期待される大きな応答が現れることが知られています。 ↑

図5: 反強磁性体Mn3Snの結晶構造(左)と磁気構造(右)。Mn3Snはマンガン(Mn)とスズ(Sn)からなる格子面(カゴメ面)が[0001]方向に交互に位置を変えながら積層した構造をもっている。Mn原子上の矢印が磁気スピンの方向を示しており、それらが互いに逆向きを向こうとする性質とMn原子の配置により、スピンが互いに120°を向いた反強磁性秩序を示す。右図中のピンク色の矢印は強磁性体における磁化に対応するクラスター磁気八極子を示しており、Mnスピンがつくる磁気秩序に応じて向きを変える。
注3 温度アシスト機構、内因性機構
SOTによるスイッチングでは、磁性体と重金属の積層構造に電流を流すことで、重金属中で生成されたスピン流が磁性体に注入されます。一方で、電流に伴うジュール熱によって磁性体層の温度が上昇し、磁気秩序が一時的に大きく弱まる、あるいは失われる場合があります。この場合、電流パルス終了後に試料が冷却される過程で磁気秩序が再び形成され、その最終的な磁気状態がSOTによって決まります。このように、スピン流に加え、発熱と冷却過程を利用した磁気スイッチング機構を温度アシスト機構と呼びます。
最近の研究では、Mn₃Snを用いた素子におけるSOTスイッチングが、この温度アシスト機構によって実現していると報告されていました(Science Advances誌 8, eabo5930 (2022); Physical Review Applied誌 18, 024064 (2022).)。しかし、この機構では加熱と冷却の過程が必要となるため、反転には100 ns程度以上の時間を要し、反強磁性体に本来期待されるピコ秒級の高速磁気ダイナミクスを十分に活かせないと考えられていました。
これに対して、電流を流しても磁気秩序が保たれる条件下でスイッチングが可能な場合には、SOTは反強磁性磁気秩序に直接作用します。このような非熱的なSOTによる磁気スイッチング機構を、内因性機構と呼びます。内因性機構では、加熱・冷却過程に律速されずに反強磁性体の高速な磁気ダイナミクスを活用できるため、ピコ秒級の超高速メモリ動作に向けて重要な機構であると考えられます。 ↑
注4 異常ホール効果
磁場を印加しながら電流を流すと電流・磁場両方に垂直な方向に起電力が生じることをホール効果と呼びます。強磁性体においては磁化の方位に応じてホール効果が発生することが知られており、異常ホール効果と呼ばれます。近年では強磁性体以外の物質でも、カイラル反強磁性体Mn3Snのように、波数空間における仮想磁場の発生により異常ホール効果を示す物質も知られています。 ↑
注5 トンネル磁気抵抗効果
二つの磁性金属層と、その間に絶縁体薄膜層を挟んで接合した多層膜系を磁気トンネル接合(MTJ)と呼びます。磁気トンネル接合では、量子力学的なトンネル効果によって絶縁層にも電流が流れます。この時、二つの磁性金属層のもつ磁気秩序の相対的な向きが平行な状態と反平行な状態とで電気抵抗値が変化することがあり、これをトンネル磁気抵抗(TMR)効果と呼びます。TMR効果は、現在のMRAMにおいて磁気情報を読み出すために用いられている基本原理です。↑

