現世に至る元素の流転
尾中 敬(東京大学 名誉教授)
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宇宙空間では,炭素,酸素などの重元素は半分程度が0.1ミクロンメータ程度の小さな固体微粒子になっている。これに対して,生命体の基本要素のアミノ酸を構成する元素である窒素は,宇宙空間では9割以上が原子やイオンの気体として存在している。採集された小惑星リュウグウのサンプルには太陽系の外側の温度が低い領域で作られたと考えられる多数の種類のアミノ酸が検出されているが,どのように作られてきたかは十分にはわかっていない。窒素を含む有機物が宇宙空間の中で生まれてくる過程は,生命の誕生に結びつく重要な課題である。今回我々のグループは,ひとまわり以上前に打ち上げられた日本の赤外線衛星「あかり」によるAFGL2006というあまり有名でない大きな質量の若い星の周りの赤外線スペクトルの詳細解析を行い,シアネートイオン(OCN−)の氷が示す4.62マイクロメータの幅広い吸収バンドが紫外線強度とよい関係があることをみつけた。シアネートイオンの氷は低温で窒素を含む有機物の最小単位とも考えられ,この結果は窒素を含む低温物質の生成に紫外線が強く関わっていることを示唆する初めての観測的証拠になる。
一方重水素は,水素の同位体として宇宙の最初に生成される元素の一つで,その後の核融合反応でじわじわと減少していくはずだが,これまでの観測は,宇宙空間での存在量が大きくばらつき,予想より少ないことを示していた。行方不明の重水素はなんらかの星間物質に取り込まれていると考えられる。宇宙空間には,水素を多量に含む多環式芳香族炭化水素(通称PAH)と呼ばれるベンゼン環を構成要素とする物質が普遍的に存在している。低温ではPAH中の水素が重水素に置き換わり,重水素の隠れ家となっている可能性がある。PAHの炭素と水素の伸縮振動は 3.3マイクロメータに観測されるが,水素が重水素に置き換わるとこの振動は4.4マイクロメータあたりに移動するはずである。しかし,4.4マイクロメータのバンドはこれまでの観測ではほとんど検出されていなかった。今回我々はシアネートイオンを検出したデータの中に4.4マイクロメータの超過放射を見つけ,3.3マイクロメータの炭素と水素の振動とよい相関を示すことを明らかにした。重水素がPAHに取り込まれていることを明確に示す観測的証拠である。
観測対象のAFGL2006の周りが氷の低温の領域と星からの強い紫外線が共存する特殊な環境であることが,今回の結果に結びついたと考えられる。稼働中のJames Webb Space Telescopeで同様の天体の観測が進めば,今後さらに研究が発展することが期待される。
本研究成果は新潟大学の下西隆准教授との共同研究としてT. Onaka et al., The Astrophysical Journal, 941, 190(2022)に掲載された。
*元・生物科学専攻 特任助教(研究当時)