湯船のなかの「せいめいのれきし」

瀧川 晶(地球惑星科学専攻 准教授)

 

恐竜がうまれるずっとずっとまえ,地球がうまれるまえには何がいたの? 湯船に浸かって,3歳8ヶ月の息子がたずねる。 46億年前には,地球もなくて,赤ちゃん太陽の周りをガスと塵がぐるぐる回っていたんだよ。私はそう言いながら,お湯をぐるぐる回す。これは遊びの合図だ。私と息子の両手は,巨大衝突をしながら地球を作り,三葉虫や頭足類を再現する。 生き物が少しずつ進化していき,ようやく大好きな恐竜が現れる。そこへ小惑星帯から隕石が飛んできて,メキシコのユカタン半島に落っこちる。お湯をバシーンと叩くと水滴が舞い上がる。つぎつぎとお湯からとびだす哺乳類。最後に,ニンゲン! と言いながらおヘソをこちょこちょするところで,遊びは終わる。そんな我が家では,今,絵本「せいめいのれきし」(バージニア・リー・バートン/文・絵)が人気だ。

私が初めて「せいめいのれきし」を知ったのは,修士1年生のときだった。阿部先生が地球惑星科学に興味をもったきっかけは,絵本なんだって。そう同級生が教えてくれた。 阿部豊博士は,地球惑星システム科学の先駆的研究者だ。そして,筋萎縮性側索硬化症(ALS)と戦いながらも研究や教育を続けられていた。阿部さんから出てくる穏やかな言葉は,研究の急所をあっという間に丸裸にしてしまう。 聞いていると,地球や惑星への興味が湧き上がる。当時も今も,私は阿部さんを研究者としていちばん尊敬している。

けれども,阿部さんとたわいもないおしゃべりをした記憶がない。阿部さんの隣の研究室に所属していた5年間,毎週ゼミで顔をあわせていたのに,いいところを見せたいと思うばかりで,何を話しかけていいかわからなかった。私は当時,期待を込めて「せいめいのれきし」を開いた。銀河系や太陽系形成はダイナミックで,確かに面白かった。しかし,プロローグが終わると,興味を失ってしまった。地球に張り付いて,短い間に生まれては絶滅していく生命の進化は,ささいな事象ではないか。そう思っていた。

私はずっと,阿部さんの言葉に耳を澄ますばかりだった。学位をとって東大を去るときに,もじもじしながらなんでもない挨拶をした。がんばってください,と言ってもらった。これが,2018年に亡くなられた阿部さんと交わした最後の言葉になった。

東京を離れてから4年がたち,私は子供を身ごもった。自分の身体の中で,豆粒みたいなものに手足ができて,ついには中から蹴りつけてきた。酢飯と湯豆腐ばかりが食べたくてたまらない。なんという動物的な変化だろう。自分が生き物であることを,力づくに確認させられているようだった。夏のある日,私は恐怖と痛みから開放された。その代わりに,湿っていて,温かい,2.3キログラムのニンゲンが胸に置かれた。私は,降参した。生命への驚き,畏怖する気持ち,好奇心。これほど強烈なものだったのか。一度知ると,なかった時を思い出すのも難しい。

「せいめいのれきし」(バージニア・リー・バートン/文・絵,
いしいももこ/訳)と「生命の星の条件を探る」(阿部 豊/著)

私は教員として地球惑星科学専攻に戻ってきた。そして,銀河系の星々の中で太陽系がどのような存在で,太陽系をつくった物質が何であったのかを研究している。お風呂の中では,地球に生命があらわれて進化していく様を熱演している。 絵本「せいめいのれきし」の始まりは,「考えられないほど大昔,太陽がうまれました」という言葉だ。そして,「さあ,このあとはあなたのお話です」と締めくくられる。私は,「せいめいのれきし」のプロローグに,新しい一頁を書き加えたい。 太陽がうまれるまえの世界を研究して。ようやく見つけた地球や生命への好奇心を握りしめて,阿部さんに話しかけたい。

 

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理学部ニュース2021年5月号掲載

 

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