特別記事 追悼 小柴昌俊 東京大学特別栄誉教授
小柴 昌俊 (東京大学特別栄誉教授)
1951年東京大学理学部物理学科卒業(理学博士/67年東京大学),55年に米国ロチェスター大学大学院修了(Ph.D),58年東京大学助教授(原子核研究所),70年より同大教授,74年高エネルギー物理学実験施設長となる(現・素粒子物理国際センター)。定年退官後は東海大学教授,平成基礎科学財団設立(理事長に就任)と続き,基礎科学の発展と若い人たちへの啓蒙活動に努めた。 2002年「宇宙ニュートリノの検出」の業績に対して,ノーベル物理学賞受賞。
小柴昌俊先生の訃報に接して
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東京大学特別栄誉教授の小柴昌俊先生の突然の訃報に接し,理学系研究科構成員一同言葉を失っています。心より深い哀悼の意を表します。
小柴先生は東京大学理学部卒業後,米国の大学院修了を経て本学に戻られ,助教授・教授を長く務められました。この間に 準備を開始したカミオカンデは1983年に稼働し,1987年には大マゼラン星雲で起きた超新星爆発からのニュートリノを世界で初めて観測し,2002年のノーベル物理学賞など数多くの賞を受賞されました。またこの研究は,2015年の梶田教授のニュートリノ振動のノーベル賞受賞にもつながりました。先生の多大なる学術へのご貢献に,理学系一同,心より感謝しております。
本学退官後も,基礎科学の発展と若い人たちへの研究指導や啓蒙活動を続けられ,多くの研究者を育てられました。鋭い直感と情熱にあふれた先生のご研究と誠実なお人柄に敬意を表し,心から深くご冥福をお祈り申し上げます。
追悼:小柴昌俊 特別栄誉教授
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東京大学特別栄誉教授の小柴昌俊先生が,2020年11月12日夜,ご逝去されました。謹んで哀悼の意を表します。
物理学科の卒業生である小柴先生は,1963年から1987年まで物理学教室で教鞭をとられ,その間にカミオカンデの建設と超新星爆発からのニュートリノ観測により,ニュートリノ天文学の礎を築かれました。また教育者としてもたくさんの優れた後進を育てられ,そのことが一人の研究者だけではなし得ない,多くの成果につながりました。
2002年にノーベル物理学賞を受賞されましたが,その研究は何の役に立つのかと尋ねられたさい,何の役にも立ちませんと胸を張って答えられたのが,大変印象的でした。一見逆説的ですが,自然界の不思議を解明し真理を探求する,もっとも純粋な物理学者の姿勢を示すことで,基礎研究の大切さをうったえられたのだと思います。
昔,不出来な学生実験のレポートを提出するため,少々おっかなくてドキドキしながら先生の研究室にうかがったことがありますが,いま思えばそれはカミオカンデが完成した年のことでした。その頃のお元気な先生のお姿に想いを馳せつつ,心よりご冥福をお祈りいたします。
小柴先生の思い出
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我が国の基礎科学の巨星であられた小柴昌俊先生が2020年11月12日にご逝去されました。享年94歳でした。先生は1926年に愛知県豊橋市でお生まれになり,第一高等学校を経て1951年に本学・物理学科を卒業されました。1963年には本学物理学教室の助教授になられ,宇宙線μ粒子の束を故・戸塚洋二氏らと神岡鉱山で観測し,神岡との付き合いが始まりました。神岡関係は梶田隆章さん(東京大学特別栄誉教授)にお任せして,私はe+e-衝突実験などに関して書きます。
先生は,1970年代初めから高エネルギーe+e-衝突実験の重要性を認識され,この道の先駆者であるノボシビルスクのゲルシュ・ブトケル(Gersh Budker)教授との協同研究を始めましたが,まもなくブトケル教授が倒れて計画が頓挫してしまいました。そこで,ヨーロッパを回ってドイツのDESY研究所(ドイツ電子シンクロトロン:Deutsches Elektronen-Synchrotron) で始まるe+e-衝突蓄積リングDORISでのDASP実験に参加することを企画されました。この実験が始まってすぐ1974年には現在の素粒子標準理論への方向をきめるJ/ψ粒子がアメリカで発見され,DASP実験はJ/ψ粒子こそ逃しましたが,関連した粒子Pcを折戸周治氏らが発見しました。これらの成果を踏まえて,DESYは次のe+e-コライダーPETRAの建設に着手し,先生はそこでの国際共同実験JADEのために理学部附属素粒子物理国際協力施設を設立され ました。PETRAでは強い相互作用を媒介するグルーオンを発見しました。1980年代始めにはヨーロッパは素粒子物理のメッカであるCERNにより大きなe+e-コライダーLEPの建設を計画していましたが,小柴先生はこの情報をいち早く掴み東大が参加する道を作りました。LEPは標準理論の確立に大きく貢献しました。現在,LEPの次のe+e-コライダーとして国際リニアコライダー(ILC)を日本の北上山地に建設する計画を進めていますが,与謝野馨議員らは2006年にILC計画のための議員連盟を設立し小柴先生もそれを助け, 2008年には先生はILCの産学連携組織の立ち上げにも屈力されまし た。2012年にLHCでヒッグス粒子が発見されて,ILCの重要性が 高まりILCの建設が国際的なコンセンサスになっています。
2002年にノーベル物理学賞を受賞されてすぐに,その賞金などを基に平成基礎科学財団を立ち上げられ,広い分野の著名な科学者を講師に呼んでおもに高校生のための「楽しむ科学教室」などを開催して基礎科学の振興にも尽くされました。先生は,「研究者は常に将来の研究の種となる卵を幾つか温めておき,それらが孵化して大きく成長できるかをときおり見極めなさい」と仰っておられました。小柴研究室の同窓会である「クォーク会」の初期の頃には,第一高等学校での学友だった大蔵省主計局長から共産党幹部まで来賓としてお招きになり,先生は「どんな政権になっても,俺は大丈夫だ」と豪語されていたのを思い出します。 2019年11 月のクォーク会で先生とお会いしたのが最後になりました。先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
小柴昌俊先生の思い出
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カミオカンデ実験を発案され,ニュートリノ天文学を創始された小柴昌俊先生が2020年11月12日にご逝去されました。小柴先生のもとでカミオカンデ実験に参加させていただき,さまざまなことを教えていただいた学生の一人として小柴先生の思い出を書かせていただきます。
小柴先生が陽子崩壊を探すことを目的にカミオカンデのアイデアを考えたのは1970年代の終わりの頃であったと聞いています。 私が修士課程の学生として小柴研究室のメンバーになったのは1981年の春で,ちょうどカミオカンデのための50㎝直径の光電子増倍管が製造され始めた頃でした。この50㎝直径の光電子増倍管がカミオカンデ成功の鍵でした。当時,アメリカでIMBというカミオカンデと同様のコンセプトで,かつ規模が3倍くらいの装置がカミオカンデより1年くらい早く実験を開始していました。結局実験が終わってみれば,50㎝直径の光電子増倍管のおかげでカミオカンデがはるかに多くの成果を出したと言えると思います。
小柴先生は研究室の大学院学生にいつも2つのことを言っていました。一つは,「われわれは国民の血税で実験をやらせてもらっている。したがって研究費は1円たりとも無駄にするな。業者から物を購入するときも決して言い値で買ってはならない」。 また「将来独立した研究者としてやっていくため,つねに研究の卵を2つ3つは持っておき,実際に実験ができるときが来たときに実現できる準備をしておきなさい」と いうものでした。おそらくこれらの教えは多くの小柴研究室出身者に引き継がれたと思います。
さて,陽子崩壊の観測を目的に開始したカミオカンデですが,実験が始まってみると陽子崩壊は観測されませんでした。一方,数か月のデータで,宇宙線ミューオンが水中で止まり崩壊して出てきた電子のスペクトルが約10MeV以上ではきれいに見えていることがわかると,小柴先生はカミオカンデを改造して14MeVまでスペクトルが延びている太陽ニュートリノの観測をすることを提案されました。小柴先生は当時 「これだけのお金をかけて作ったカミオカンデで,実験の結果,陽子崩壊の信号が観測されませんでしたというだけの結果で終わらせるわけにはいかない」とおっしゃっていました。小柴先生は研究室の学生に言われていた上記の言葉をまさに自ら実践されていました。実験が始まってわずか数か月というこの時期の大きな方針転換には驚きましたが,結局このタイミングでの決断が1987年の超新星ニュートリノ観測に結びついたのでした。
小柴先生はカミオカンデの実験が始まると,毎朝ディスプレイの前に座って,カミオカンデのデータをスキャンすることを日課にされ,ずっと続けられました。陽子崩壊,あるいは何か面白そうなイベントがあれば実際に自分の目で最初に確認したいという思いがあったのではないかと思います。われわれは研究者として決して忘れてはいけない姿勢をその姿から教え続けられた気がします。小柴昌俊先生のご冥福をお祈りいたします。
理学部ニュース2021年1月号掲載