小柴昌俊先生の思い出
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カミオカンデ実験を発案され,ニュートリノ天文学を創始された小柴昌俊先生が2020年11月12日にご逝去されました。小柴先生のもとでカミオカンデ実験に参加させていただき,さまざまなことを教えていただいた学生の一人として小柴先生の思い出を書かせていただきます。
小柴先生が陽子崩壊を探すことを目的にカミオカンデのアイデアを考えたのは1970年代の終わりの頃であったと聞いています。 私が修士課程の学生として小柴研究室のメンバーになったのは1981年の春で,ちょうどカミオカンデのための50㎝直径の光電子増倍管が製造され始めた頃でした。この50㎝直径の光電子増倍管がカミオカンデ成功の鍵でした。当時,アメリカでIMBというカミオカンデと同様のコンセプトで,かつ規模が3倍くらいの装置がカミオカンデより1年くらい早く実験を開始していました。結局実験が終わってみれば,50㎝直径の光電子増倍管のおかげでカミオカンデがはるかに多くの成果を出したと言えると思います。
小柴先生は研究室の大学院学生にいつも2つのことを言っていました。一つは,「われわれは国民の血税で実験をやらせてもらっている。したがって研究費は1円たりとも無駄にするな。業者から物を購入するときも決して言い値で買ってはならない」。 また「将来独立した研究者としてやっていくため,つねに研究の卵を2つ3つは持っておき,実際に実験ができるときが来たときに実現できる準備をしておきなさい」と いうものでした。おそらくこれらの教えは多くの小柴研究室出身者に引き継がれたと思います。
さて,陽子崩壊の観測を目的に開始したカミオカンデですが,実験が始まってみると陽子崩壊は観測されませんでした。一方,数か月のデータで,宇宙線ミューオンが水中で止まり崩壊して出てきた電子のスペクトルが約10MeV以上ではきれいに見えていることがわかると,小柴先生はカミオカンデを改造して14MeVまでスペクトルが延びている太陽ニュートリノの観測をすることを提案されました。小柴先生は当時 「これだけのお金をかけて作ったカミオカンデで,実験の結果,陽子崩壊の信号が観測されませんでしたというだけの結果で終わらせるわけにはいかない」とおっしゃっていました。小柴先生は研究室の学生に言われていた上記の言葉をまさに自ら実践されていました。実験が始まってわずか数か月というこの時期の大きな方針転換には驚きましたが,結局このタイミングでの決断が1987年の超新星ニュートリノ観測に結びついたのでした。
小柴先生はカミオカンデの実験が始まると,毎朝ディスプレイの前に座って,カミオカンデのデータをスキャンすることを日課にされ,ずっと続けられました。陽子崩壊,あるいは何か面白そうなイベントがあれば実際に自分の目で最初に確認したいという思いがあったのではないかと思います。われわれは研究者として決して忘れてはいけない姿勢をその姿から教え続けられた気がします。小柴昌俊先生のご冥福をお祈りいたします。
理学部ニュース2021年1月号掲載