1987 →
茂山 俊和(ビッグバン宇宙国際研究センター 教授)

私の好きな日本のロックバンドの一つ,スピッツの曲に1987→というのがある。1987年はスピッツが活動を始めた年らしいが,私の人生を変えた年でもあるので,本稿の題名をそこから取ってきた。その年の2月下旬,私は博士課程1年の大学院生で,修士論文の内容を出版すべく駒場の4号館の宇宙地球科学教室にある大学院生室で論文執筆に苦労していた。そんなときに,指導教官だった野本憲一さん(現:東京大学カブリIPMU 客員上級科学研究員)が部屋を訪ねてきて,「大マゼラン雲に超新星が出た。今やっている研究を中断して,この超新星のモデル作りを手伝ってくれないか。」という意味のことを私に話したと記憶している。大マゼラン雲は近傍の小さな銀河で,そんなに近くに超新星が出るのはガリレオ・ガリレイが望遠鏡で惑星を観測して以来初めての出来事だった。それ以前に近傍に出た超新星は肉眼でしか見たことがなかったのだ。この話を聞いた直後に「やります」と即答した(と思う)。
野本さんは大質量星が時間とともに変化して超新星爆発する直前までのモデルを構築できる数少ない研究者の一人だった。そんな研究室にいる私がこのチャンスを逃す手はない。研究は星の爆発の数値計算モデルを作り,超新星の色や明るさの変化の観測結果をモデルと比較して,どんな星がどのようなエネルギーで爆発したのかを明らかにするのが目標だった。モデル作り(≈プログラム書きとバグとり)は日々新しく出てくる観測結果との競争だった。問題点を整理し次にやるべきことを考える頻度がそれまでとは比較にならないくらい増えた。計算結果を元にその中で起こっている重要な物理過程は何か,定量的な描像を頭の中に作るのも習慣になっていった。自分の脳が励起状態に遷移した感じがしていた。

当初からニュートリノがカミオカンデII(現在稼働中のスーパーカミオカンデの前身)で受かっているはずという噂はあった。しかし,カミオカンデIIを運用する小柴研には緘口令がしかれていた(らしい)。受かっていなければそんなことするはずないということで,検出報告を心待ちにしていたことを覚えている。結局,ニュートリノは可視光での発見のおよそ3時間前に約13秒間にわたって11個検出されていた(みなさんご存知の通り,カミオカンデを主導した小柴昌俊氏は15年後にノーベル物理学賞を受賞した)。そのエネルギーと継続時間から,爆発した星の中心部では太陽の1.5倍ほどの質量を持つ中心核が重力崩壊を起こしたことが推察され,このニュートリノ検出と超新星発見までの時間差を再現する私たちのモデルから,爆発した星は半径が比較的小さい青色超巨星であることがわかった。これは爆発前後のその領域の写真を比較したときに消えていた星とも合致していた(図)。同じモデルからこの超新星は太陽の15倍ほどの質量を持つ大質量星の爆発だったこともわかった。これら一連の研究は,最近ではmulti-messenger astronomyと呼ばれている,電磁波に加えてニュートリノや重力波のもたらす情報も加えて研究する新しい天文学の始まりでもあった。そして,自然現象から色々なことを学べる楽しさを私は知った。スピッツがバンド活動の継続への想いを→に込めたように,私もそのとき以来の脳の励起状態が続く限りワクワクするような研究を続けていきたい。
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