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理学部ニュース

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理学部ニュース2025年1月号掲載

理学エッセイ>

歩いて20分,辿って150年

磯部 寛之(化学専攻 教授)

あまり広く知られてはいないが,本郷キャンパスから少し歩くと「有機化学の原点のほど近く」を訪れることができる。

理学部を出て,言問通りを北東に向かい,上野桜木の交差点を左に折れると谷中墓地にたどり着く。春には桜が咲き乱れる桜並木のなかほどに「獨逸國学士利淂耳君碑」の題字を冠した石碑がある。この<ドイツの学識者リッテル君の碑>の題字は木戸孝允の手によるものであり,碑文は明治三筆のひとり巌谷一六の筆,文字は名石工として知られた廣群鶴が刻むなど,なかなか充実した立派な石碑である。本学の前身,開成学校で教鞭を執っていたヘルマン・リッテルが1874年,47歳という若さで早世した翌1875年,学生有志がその死を惜しみ,この碑を建てている。

リッテルは,わが国の科学・教育に大きな影響を及ぼした人物であり,大阪開成学校(舎密局;京都大学の前身)で行っていた英語での講義を基にした和文教科書が「理化日記(1870年)」である。この教科書には,市川盛三郎が新造した「弗素(ふっそ)」や「沃素(ようそ)」という元素名が初めて登場するのみならず,「アトム」が導入され,「分子(細分子)」の概念が,ケクレの「ソーセージ型分子モデル(1865年)」とともに明示されている。「理化日記」は,1874年には「化学日記」と「物理日記」に分けられ文部省発行の官製教科書にもなった。数年前に入手した木版和装の「化学日記」のページをめくると,最先端知識の丁寧な紹介に驚かされ,要所要所に登場する器具や実験の図に,演示実験を交えた胸躍る講義の様子を想像させられる。リッテルは,1872年6月6日に大阪で,1873年10月9日には東京で,明治天皇に実験を披露しており,実験・演示に長けた人物であったことが窺われる。聴講生として聞いていたリッテルの講義に魅了されてしまったことで,本来の医学への志を捨て,理学・化学に転身した若者が,のちにアドレナリンを発見する高峰譲吉であった。

桜雨に飾られるリッテル碑。墓所は横浜外国人墓地にあり,こちらは記念碑となっている。谷中墓地の「甲2号2側」の通路脇,高橋お傳さんの墓所のお隣にある。

リッテルは,1860年にゲッティンゲン大学で博士号を得ているが,その指導教官は「尿素の合成」により有機化学の始まりを宣言したフリードリヒ・ヴェーラー(碑文中「ウエレル」)であった。「化学日記」の二篇一には,メタンと塩素を高温で反応させる実験が載っているが,この実験が演示されていたとすると,有機化学始祖の手ほどきを受けた愛弟子による「日本で初めての有機化学実験」であったということになるのかもしれない。なお,リッテルは物理学をヴィルヘルム・ヴェーバーに学んだとされ,「物理日記」の内容もまた充実していることは,その教育を反映しているものと思われる。

本学理学とリッテルの縁は深く,教科書の翻訳者であった市川盛三郎は1879年に理学部物理学教室の教授となり,また,リッテル自身は開成学校では鉱物学教室に従事しながら化学と物理学を教授していた。ちなみに数学者ベルンハルト・リーマンはリッテルの高校の後輩にあたる。

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本郷キャンパスから歩いてわずか20分。今から150年前に近代科学を日本にもたらしたリッテルさんに,ぜひ一度,ご挨拶に伺ってみるのはいかがだろうか。春の桜のころがオススメです。筆者はこの碑を訪れるたび,あやかりたいと願いつつ「懇篤」の刻字に触れている。なお,本稿を認めるにあたりいろいろと調べ直していたところ,思いがけず1877年出版の「化学日記」の洋装活字版(丸屋善七出版),さらには1870年出版の原典「理化日記」の一部までも手に入れてしまった。「懇篤に努めなさい」とのリッテルさんからのお言付けなのかもしれない。

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