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理学部ニュース

生命の情報物理学

岡田 康志(理化学研究所(BDR) チームリーダー,医学系研究科 教授/物理学専攻 兼務)

生物,生命現象を物理学の言葉で理解したい。これが生物学と物理学の境界領域にある生物物理学という分野の目標である。

私たちは,力学的な生命現象として,キネシンというタンパク質分子モーターの研究を行ってきた。キネシンは,アデノシン三リン酸(ATP)を加水分解し,その化学エネルギーを細胞内での物質輸送という力学的仕事に変換する。その動作機構を調べるために,キネシン分子1個が動く様子を直接見て,計測するための顕微鏡を開発し,計測を進めてきた。

車で燃費が気になるように,キネシンの燃費すなわち入力エネルギーから出力される仕事への変換効率を調べたくなる。しかし,分子1個レベルでの効率の議論に,熱力学や統計力学を単純に適用することはできない。熱力学ではATPの濃度に基づいて加水分解に伴う自由エネルギー変化を議論する。キネシン分子1個レベルでは,ATPの濃度は,単位時間あたりにATPがキネシンに結合する確率として議論すべきで,エネルギーなども確率に基づいた議論の対象となる。

分子1個のような系に単純に熱力学を応用することの問題点は,マクスウェルの悪魔などの思考実験で以前から指摘されていたが,上記のような生物物理学実験の進展などにより,現実的な対象として浮上してきた。そのような時代背景を受けて,確率的かつ非平衡な系に対する統計力学・熱力学の研究が進み,「情報熱力学」に結実した。

情報熱力学では,分子1個レベルの議論だけでなく,変化する系の議論も可能である。「状態を素早く変化させるためには,より多くのエネルギーが必要となる」という直感的な性質も,熱力学的不確定性関係として定式化できる。「エラーを減らすには,より多くのエネルギーが必要となる」など,さまざまな機能と,それを実現するためのエネルギー(熱コスト)の間のトレードオフ関係を定量的に議論できる枠組へと発展しつつある。

       
タンパク質分子モーター1分子の高速高分解能計測のために開発した顕微鏡

そう考えると,生物は燃費だけを重視して進化してきたのではないのかもしれない。実際,1分子計測技術を駆使した計測結果から,キネシンのエネルギー変換効率は予想外に低いという報告がある。キネシンは,他の何かの機能を実現するために余分なエネルギーを消費しているのかもしれない。どんな機能なのだろうか? 

また,マクスウェルの悪魔の議論などを経て情報を陽に取り入れる形で情報熱力学が発展した結果,細胞内の情報処理などのような生命現象に対しても,情報熱力学を切り口とした研究が可能になると期待される。

タンパク質分子モーターの1分子計測にまつわる問題を契機として,理論家からは情報熱力学という強力な武器が返ってきた。次は,この理論的枠組を,生命現象の理解に適用できるような形で具体化し,実験へと反映させるターンである。生物学と物理学,実験と理論の両極の間のダイナミズムこそが生物物理学という境界領域の醍醐味なのかもしれない。


タイトルの「生命の情報物理学」は,筆者が代表をつとめる新学術領域研究の領域名です。本学理学系研究科では,伊藤創佑准教授(生物普遍性研究機構),川口喬吾准教授(知の物理学研究センター),竹内一将准教授(物理学専攻)が領域メンバーです。それ以外に,上村想太郎教授(生物科学専攻)・樋口秀男教授(物理学専攻)はタンパク質分子の1分子計測の専門家です

 

理学部ニュース2023年11月号掲載

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