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理学部ニュース

 

僕が一貫して興味を持ち続けてきたのは,生命のように振舞う系を化学で人工的に実現することだ。生命は,核酸やアミノ酸,脂質といった化学物質からできている。個々の物質は「死んでいる」のに,その集合体である生命は「生きている」。それはなぜか。どうすれば同じことを人工的に実現できるだろうか。

生命のような人工系への興味は,理学部時代に育まれたものだ。学部では塩谷光彦先生の研究室で卒業研究をして,超分子化学の基礎を身につけた。超分子化学では,分子間の相互作用を主題的に研究する。多種多様な分子の複雑かつ洗練された相互作用から成り立つ生命現象を理解し再現するためには,超分子的な視点が欠かせない。初めは,既存の実験結果を再現することすら難しく失敗の連続だった。そうした試行錯誤を通じて実験の基礎を身につけられたことは,後の研究生活の大きな財産になっている。また直接指導していただいた竹澤悠典先生からは,自分の興味を具体化する手がかりをいくつも教わった。その一つが,非平衡系だ。外部からエネルギーや物質が流入しない系は,温度や濃度変化のない平衡状態に落ち着く。しかし生命は外部から光や食物という形でエネルギーと物質を摂取し,非平衡状態を保っている。この非平衡性によって,知覚・運動・自己増殖・情報処理といった生命らしい振る舞いが生まれる。その頃は非平衡系が超分子化学の文脈で注目され始めており,自分の進むべき道を見出した思いがした。

とくに興味をそそられたのが,分子機械すなわち極小サイズの機械の研究だ。それで,この分野で世界をリードしていたマンチェスター大学(University of Manchester) のD.リー(David Leigh)先生のもとに留学することにした。博士課程では,分子機械の基礎的なメカニズムであるブラウニアン・ラチェットの研究に没頭した。分子サイズの機械の作動原理は通常のマクロな機械とは大きく異なる。その核心にあるのがブラウニアン・ラチェットの原理だ。これにより,分子スケールで支配的になる熱ゆらぎ(ブラウン運動)が引き起こす分子機械のランダムな運動のうち望ましくない方向への逆戻りが防がれ,一方向運動が実現される。人工系ではまだ数えるほどの実現例しかないが,僕たちはこの原理を元に分子ポンプを作ることに成功し,その理論的な分析も行った(図)。最近はブラウニアン・ラチェット原理を分子機械以外の非平衡系に応用する試みが増えており,その深化と一般化が急務である。世界中から来た仲間たちと議論しながらプロジェクトを自由に立ち上げ,幾多の困難を乗り越えて完遂したのは何物にも代えがたい経験だった。

自律的な分子ポンプ。右側の細長い分子がポンプで,環状分子(crown ether)の内側で燃料分子(chemicalfuel)と反応することでcrown ether をcatchmentregion に汲み上げる。Chemical fuel の一部がポンプに結合してcrown ether が溶液中に逆戻りするのを防ぐなどのブラウニアン・ラチェット機構によって,複数のcrown ether が連続して汲み上げられる。単純に見えるが,実現には構想1 年,実験1 年を要した(credit: Stuart Jantzen)

近年,基礎研究を取り巻く環境は洋の東西を問わず厳しい。しかし,「役に立つ」家屋や高層ビルを建てるのが応用研究なら,建物の土台となる大陸を見出して開拓するのが基礎研究だと思う。化学の京都学派の創始者,喜多源逸は福井謙一に「応用をやるなら基礎をやれ」と助言したというが,この言葉は真実であり続けるだろう。非平衡系の化学の可能性は未知数だが,それが広大な大陸の一角であると信じてこれからも開拓に邁進したい。


 

2023年9月号掲載

未来へのとびら>