DATE2021.04.15 #Press Releases
トポロジカル反強磁性体において電気的に読み書き可能な信号の増強に成功
―超高速駆動する不揮発性メモリ素子の開発へ道筋―
Tsai Hanshen(物性研究所 特任研究員)
肥後 友也(物理学専攻 特任准教授/研究当時:物性研究所 特任助教)
近藤 浩太(理化学研究所 上級研究員)
坂本 祥哉(物性研究所 助教)
小林 鮎子(大学院新領域創成科学研究科 博士課程2年生)
松尾 拓海(大学院新領域創成科学研究科 修士課程1年生)
三輪 真嗣(物性研究所 准教授/トランススケール量子科学国際連携研究機構 准教授 併任)
大谷 義近(物性研究所 教授/トランススケール量子科学国際連携研究機構 教授/理化学研究所 チームリーダー 併任)
中辻 知(物理学専攻 教授/物性研究所 特任教授/トランススケール量子科学国際連携研究機構 機構長 併任)
発表のポイント
- 反強磁性体Mn3Snを用いたデバイスにおいて、電気的に読み書き可能な信号を3倍に増強。
- 膜界面構造の制御に成功し、低電流にてミリボルト級の読み出し信号を実現。
- 超高速動作が期待される反強磁性体を用いた不揮発性メモリ素子の実用化への大きな一歩。
発表概要
東京大学大学院理学系研究科・東京大学物性研究所 中辻 知 教授、肥後友也 特任准教授、東京大学物性研究所 Tsai Hanshen 特任研究員らの研究グループは、東京大学物性研究所 大谷義近 教授(理化学研究所 創発物性科学研究センター チームリーダー併任)、理化学研究所 創発物性科学研究センター 近藤浩太 上級研究員の研究グループ、東京大学物性研究所 三輪真嗣 准教授、坂本祥哉 助教の研究グループと共同で、次世代の情報処理デバイスの主要材料として注目を集めている反強磁性体(注1)であるマンガン化合物Mn3Snと重金属からなる多層薄膜デバイスの膜界面構造の最適化を試み、電気的に読み書き可能な信号をこれまで報告されていた値よりも3倍大きくすることに成功しました。
反強磁性体はスピン(注1)のダイナミクスがTHz帯と強磁性体(注1)の場合に比べて2~3桁速く、磁性体間の相互作用が小さいため、磁気抵抗メモリをはじめとする磁気デバイスをさらに高速化・高集積化できる可能性があります。Mn3Snはトポロジカルな電子構造に由来する巨大な応答を示す反強磁性体であり、磁気デバイス材料の有力候補として精力的に研究されています。今回、反強磁性体Mn3Sn多層薄膜デバイスにおいて実証された電気的に読み書き可能な信号を増強する手法は、次世代の磁気デバイス開発に飛躍的な進展をもたらすことが期待されます。
本研究成果は国際科学雑誌「Small Science」において、2021年4月15日付けオンライン版に公開されました。
発表内容
研究の背景
近年のインターネットの普及による社会のデジタルトランスフォーメーションは著しく、膨大な量の情報を省電力・高速で処理するためにさまざまな技術開発が行われています。パソコンやスマートフォンなどの情報処理端末やデータセンターのサーバーで用いられている半導体揮発性メモリは電源をオフにすると情報が消えてしまうため、常に大量の電力が必要です。そのため、電源オフの状態でも情報の維持が可能な不揮発性メモリへの代替が検討されています。
磁化(磁石の磁極)の向きを「0」と「1」の情報として記憶できる強磁性体を用いた磁気抵抗メモリは、不揮発性メモリの代表例として注目を集めています。最近では、磁化の書き込み手法としてスピン流(注2)を用いた磁化反転現象が見いだされ、汎用化されつつあります。特に強磁性体と非磁性重金属の白金(Pt)やタングステン(W)などからなる多層膜に電流を流すことで起こる磁化反転現象はスピン軌道トルク磁化反転と呼ばれ、次世代技術として盛んに研究されています。
また、磁気抵抗メモリのさらなる高速化に向けた開発指針の1つとして、反強磁性体による強磁性体の代替が検討されています。その理由は、反強磁性体はスピンの応答速度が強磁性体に比べて2~3桁速いTHz帯 [ピコ(10−12)秒] であるためです。反強磁性体を用いた情報処理に関する研究開発が世界的に進められており、すでに強磁性体と同様に電気的に情報の書き込みや読み出しが可能であることが実証されています。その一方で、読み出し信号が小さいことが応用上の課題となっていました。
研究内容と成果
本研究グループはマンガン(Mn)とスズ(Sn)からなる反強磁性体Mn3Snに関する研究を行っており、反強磁性体では観測が困難だと信じられてきた異常ホール効果(注3)や異常ネルンスト効果(注4)などの応答が室温・ゼロ磁場で現れることを発見してきました。その後の研究により、Mn3Snの反強磁性スピン構造(図1a)が持つクラスター磁気八極子(注5)がトポロジカルな電子構造であるワイル点(注6)や運動量空間における仮想磁場(実空間換算で100~1000 テスラ(T)に相当)の向きと対応しており、クラスター磁気八極子の向きによってワイル点と仮想磁場に由来した応答を制御できることも明らかになっています。より最近では、上記の強磁性体を用いた磁気抵抗メモリと同じように、スピン軌道トルクを用いて応答を電気的に制御する手法の開発にも成功しました(図2a-c)。
図1:Mn3Snの結晶・磁気構造と異常ホール効果の概要図。
(a) ワイル反強磁性体Mn3Snは c軸方向に磁性原子のマンガンMn (青の球) からなるカゴメ格子が積層した構造を持ち、420 K(約150 ℃) 以下で、Mnのスピンが逆120度構造と呼ばれる反強磁性秩序を示します。二層のカゴメ格子上のスピンを見ると、六角形で示されているクラスター磁気八極子と呼ばれる6つのスピンからなるユニットが同じ方向にそろっていることがわかります。紫の矢印は磁気八極子の方向を示します。(b) Mn3Snでは、巨大な仮想磁場の効果により、磁化が非常に小さくても強磁性体に匹敵するほど大きな異常ホール効果が現れます。
図2:Mn3Sn/非磁性重金属(W)素子におけるスピン流での磁気八極子の反転と情報の書き込み・読み出し機構の概要図。
(a) Mn3Sn/W素子に電流を流すことで赤色と青色矢印に偏極したスピン流が生じます。このスピン流によりMn3Snの反強磁性秩序(磁気八極子:紫矢印)および仮想磁場が向きを変えます。その結果、異常ホール電圧の符号の反転が起こります。(b) Mn3Sn/W素子では、書き込み電流の方向によってMn3Sn層の磁気八極子の方向を制御し、「0」と「1」の情報を記憶できます。(c) 上記のMn3Sn層の磁気八極子の方向によって記憶した情報は、読み出し電流を流すことでホール電圧として読み出すことができます。
本研究では、反強磁性体Mn3Sn多結晶薄膜と重金属薄膜を含む多層膜からなるホール電圧測定用の素子をシリコン基板上に作製し、書き込み電流によるホール電圧の変化を室温で測定しました。図3aにはこれまで報告されていたルテニウム (Ru)/Mn3Sn/Wの多層膜における室温でのホール電圧の書き込み電流依存性を示します。ここでホール電圧の測定には書き込み電流とは別に0.2 mAの読み出し電流を加えています。30 mA程度の書き込み電流を加えた際に25 µV程度のホール電圧の変化が見られます。この振る舞いは、素子に電流を流すことでW層に生じるスピン流がMn3Snの磁気八極子と仮想磁場に由来したホール電圧を反転している(スピン軌道トルクにより反転している)ことを示しています。今回新たに多層膜の積層構造や成膜プロセスを改良し、Mn3Sn層の結晶配向性と重金属との界面構造を変えることで読み出し信号の増強を試みました。Ru層を除去し、W層の成膜後の熱処理プロセスを改良することで、素子表面の粗さを約 0.5 nmまで平滑化したMn3Sn/W多層膜の素子の作製に成功しました。また、ホール電圧測定の結果、上記Ru/Mn3Sn/W多層膜の素子の3倍ほど大きな読み出し信号の電気的制御が可能であることを確認しました(図3b)。(ホール電圧) =(読み出し電流)×(ホール抵抗)であり、ホール電圧は読み出し電流に比例して大きくなることが知られていますが、本素子では3 mA程度の電流を流すことで1 mVの電圧が発熱の影響なく取り出せることも確認しました(図3c)。
図3:Ru/Mn3Sn/W素子とMn3Sn/W素子における書き込み・読み出し実験と読み出し信号のホール電圧の電流依存性と読み出し信号の増強
(a) Ru/Mn3Sn/W素子における室温でのホール電圧の書き込み電流依存性。 (b) Mn3Sn/W素子における室温でのホール電圧の書き込み電流依存性。上記Ru/Mn3Sn/W素子の3倍ほど大きな信号が電気的に制御可能であることを確認しました。ホール電圧の測定には書き込み電流とは別に0.2 mAの読み出し電流を加えています。(c) Mn3Sn/W素子における読み出し信号(ホール電圧)の読み出し電流依存性。3 mA程度の読み出し電流を流すことで1 mVの電圧が素子の温度上昇の影響なく取り出せることを確認しました。
読み出し信号(ホール抵抗)の増大は、成膜プロセスの改良により(i)Mn3Sn層の結晶粒がより読み出し信号を大きくする方向に配列したこと、(ii)Mn3SnとWの界面が平滑になったことが主な要因であると考えられます。このデバイスは、素子サイズを下げることにより書き込みに必要な電流値を下がり、読み出し信号が大きくなるという特性を持ちます。
今後の展望
近年、反強磁性体を用いた情報の書き込み・読み出し手法の開発が精力的に行われています。本研究では、スピン軌道トルクを用いて反強磁性体Mn3Snに情報の書き込みを行っています。そのため、強磁性体の場合と同様の素子構造を用いることができ、現在、不揮発性磁気抵抗メモリで使われている技術の適用が可能です。今回実証した「反強磁性体Mn3Snと重金属からなる薄膜デバイスにおける読み出し信号の増強手法」は、データセンターでの高速情報処理やビヨンド5G通信で求められる超高速駆動可能な磁気デバイス開発に有用な知見をもたらします。その一方で、情報機器への実装を進めるためには、反強磁性体において期待されるピコ秒での超高速情報処理の実証や読み出し信号のさらなる増強が重要となります。また、物質のトポロジーに由来する性質は、近年の固体物理学において大きな注目を集めており、ワイル粒子の電気的な制御そのものも学術的に大変興味が持たれています。今回、開発したワイル粒子を電気的に制御し効率よく読み出し信号を得る手法は、これまで観測できなかったワイル粒子のダイナミクスなどの非平衡物理やそれによる新しい現象の研究へつながることが期待されます。
本研究は、科学技術振興機構(JST) 戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)「トポロジカル材料科学に基づく革新的機能を有する材料・デバイスの創出」研究領域 (研究総括:上田正仁)における研究課題「電子構造のトポロジーを利用した機能性磁性材料の開発とデバイス創成」課題番号 JPMJCR18T3 (研究代表者:中辻知)の一環として行われました。
発表雑誌
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雑誌名 Small Science 論文タイトル Large Hall Signal due to Electrical Switching of an Antiferromagnetic Weyl Semimetal State 著者 Hanshen Tsai, Tomoya Higo, Kouta Kondou, Shoya Sakamoto, Ayuko Kobayashi, Takumi Matsuo, Shinji Miwa, Yoshichika Otani, and Satoru Nakatsuji* DOI番号 10.1002/smsc.202000025 アブストラクトURL https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/smsc.202000025
用語解説
注1 反強磁性体・スピン・強磁性体
磁性体は「スピン」と呼ばれる電子の自転運動に起因した微小な磁石を有する物質です。この磁性体は巨視的な数のスピンが何らかのパターンで整列する磁気秩序を示し、(1) スピンが一様な方向にそろうことで磁石のように大きな磁化を示す強磁性体、(2) 隣り合うスピンが反平行や互いを打ち消しあうように配列することで正味の磁化がゼロもしくは非常に小さくなっている反強磁性体に分類されます。 ↑
注2 スピン流
エレクトロニクスでは電子の持つ電荷の流れ、すなわち電流が重要な役割を担っています。通常は電流における電子の持つスピンの向きはランダムです。電子のスピン自由度を積極的に利用するスピントロニクスでは、スピンの流れである「スピン流」を用います。今回用いた非磁性重金属は、電流を流すと電流と直交方向にスピンの向きがそろったスピン流を生成します。多層膜を作ることで、重金属層で生成されたスピン流を隣接層へ注入することができます。 ↑
注3 異常ホール効果
電気を流すことが可能な物質において、磁場・電流と垂直方向に起電力が生じる現象をホール効果と呼びます。互いに垂直に磁場と電流を与えた際に、電流として流れている電子の運動方向が磁場により曲げられることが原因です。自発的に磁化を持つ強磁性体や仮想磁場(波数空間に存在する有効磁場で、電子構造のトポロジーに起因する新しい物理概念)を持つ特殊な反強磁性体やスピン液体では、外部から磁場を与えなくてもホール効果が生じます。この効果を異常ホール効果と呼びます。 ↑
注4 異常ネルンスト効果
電気を流すことが可能な物質において、磁場・温度勾配と垂直方向に起電力が生じる現象をネルンスト効果と呼びます。磁場と温度勾配を互いに垂直となるように加えることで、高温側から低温側へ向かう電子の流れが磁場により曲げられることが原因です。自発的に磁化を持つ強磁性体や仮想磁場を持つ特殊な反強磁性体ではゼロ磁場でもネルンスト効果が現れ、これを異常ネルンスト効果と呼びます。この場合、磁場の代わりに磁化や仮想磁場を温度勾配と垂直に向けることで起電力が得られます。異常ネルンスト効果を用いると、外部から磁場を印加する必要がないため、温度差のみで発電や熱流のセンシングが可能でエナジーハーヴェスティングの観点からも注目を集めています。 ↑
注5 クラスター磁気八極子
磁石はN極とS極の2つの極を持っていますが、磁性体の各格子点に配置されたスピンも2つの極を持ち、これは磁気双極子とも呼ばれています。複数の格子点に配置されたスピンで1つのユニットを考えた際に作られる特徴的なスピンの組み合わせをクラスター磁気多極子といい、構成するスピンの数が1、2、3つと増えるにつれて、磁気双極子、四極子、八極子というようにその組み合わせの名前が変わります。反強磁性体Mn3Snのスピン構造では、2つのカゴメ格子上に配置された6つのスピンでユニットを考えられ、図1bに示すようにクラスター磁気八極子を持っていると考えることができます。このクラスター多極子は、例えばMn3Snではワイル点や仮想磁場の向きを制御するパラメータとして機能し、磁化の総和がゼロとなる組み合わせにおいても、強磁性体で見られるような巨大応答を示します。↑
注6 ワイル点
1921年にヘルマン・ワイルが提唱したワイル方程式に従って記述される質量ゼロの粒子(ワイル粒子)を持つ物質はワイル半金属と呼ばれています。ニュートリノを記述する粒子として世界的に研究が進めらてスーパーカミオカンデでの実験でニュートリノが微小な質量を持つことがわかり、ワイル粒子は自然界に存在しない幻の粒子と思われていました。ワイル半金属においてワイル点は異なるカイラリティ(右巻き・左巻きの自由度)を持つ対となってトポロジカルな電子構造として現れます。このワイル点の対は運動量空間における磁石のN極とS極に相当します。通常のワイル半金属では物質の結晶構造に由来してワイル点が創出されます。一方で磁性により創出されるワイル点を持つ磁性体をワイル磁性体(より広義にはトポロジカル磁性体)といいます。ワイル磁性体では磁場などの外場によって磁気秩序を制御することで、ワイル点とそれに付随した仮想磁場の制御が可能であり、応用の観点からも魅力的な性質が見つかっています。ワイル点間に生じる仮想磁場は100-1000 テスラ(T)の外部磁場に相当するほど大きく、巨大な異常ホール効果などの起源となっています。↑