DATE2022.12.02 #Press Releases
スピンと軌道の「量子もつれ」の巨視的効果の発見と、その制御に成功
唐 楠(研究当時:物理学専攻 特任研究員)
木村 健太(東京大学大学院新領域創成科学研究科 物質系専攻 助教)
酒井 明人(物理学専攻 講師)
フゥ ミンシゥエン(物理学専攻 特任研究員)
中辻 知(物理学専攻 教授/東京大学物性研究所 特任教授/
トランススケール量子科学国際連携研究機構 機構長 併任)
発表のポイント
- 磁性体中における磁気モーメントのみならず、軌道までもが極低温まで長距離秩序を示さず、量子力学的に揺らいでいる新奇な量子もつれ状態「スピン軌道液体」を実現。
- スピンと軌道間の量子もつれにより、トポロジカルな量子スピンアイス状態が安定化。
- 磁場で量子もつれを制御して、スピン軌道液体と固体状態の間の遷移を操作できることを発見。
発表概要
量子コンピュータや量子センサなど、新しい量子技術の開発には巨視的に現れる量子もつれ(注1)の効果の観測とその制御が鍵となります。さらなる技術開発に向けて、その操作の簡便性から磁性体での巨視的量子もつれの観測と制御の実現が望まれていました。東京大学理学系研究科物理学専攻 唐楠特任研究員(研究当時)、ミンシゥエンフゥ特任研究員、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻 酒井明人講師と東京大学大学院理学系研究科物理学専攻・物性研究所およびトランススケール量子科学国際連携究機構の中辻知教授は、東京大学大学院新領域創成科学研究科の木村健太助教、および、米ジョンズホプキンズ大学、独マックスプランク研究所、独ドレスデン高磁場研究所、印Tata Institute of Fundamental Research、名古屋大学らとの国際共同研究により、磁性イオンのプラセオジム(Pr)がパイロクロア格子 (注2) を成す酸化物Pr2Zr2O7(図1)において、スピンと軌道の量子もつれによりスピン軌道ダイナミクス((注3)図2)が極低温まで生き残り、トポロジカルな磁性状態である量子スピンアイス状態((注4) 図3)が実現していることを確認しました。さらに、その量子もつれの巨視的効果を磁場で制御するメタ磁性転移(注5) の観測にも成功しました。
図1:プラセオジム酸化物Pr2Zr2O7の単結晶写真。透き通る緑色が美しい結晶です。
図2:Pr2Zr2O7の非クラマース二重項状態(注10)において、スピンと軌道が量子もつれしている模式図。Sx, Sy成分である軌道成分とSz成分であるスピン成分の両方を持ち合わせています。Sx, Sy成分は格子歪(εx, εy)と直接結合し、Sz成分は磁場(Bz)と直接結合します。NとSはスピンの向きを示しています。古典的なスピンアイスでは横揺らぎの成分であるSx, Sy成分は存在せず静的な基底状態を取りますが、量子スピンアイスではこのSx, Sy成分が量子揺らぎの源になっており、動的な基底状態を実現します。
図3:スピンと軌道の量子的な絡みあいが結晶格子の歪みを通じて実現する機構の模式図。下の二つの正四面体は異なる2-in,2-out相関を持つスピンアイス状態。 上のの四面体は、二種類の格子歪みにより変形しています。 Pr2Zr2O7は、この変形状態を通して異なるスピンアイス状態の間を量子力学的に行き来する(=量子揺らぎ)ことができ、量子スピンアイス状態を安定化させていると考えられます。
固体中ののスピンや軌道は、高温では全く無秩序に振るまうのに対して、低温では一定のパターン(=長距離秩序)を形成することが知られています。しかし、量子もつれ(スピンと軌道が両方揺らぐ特異な液体状態)を巨視的に観測するには、上記のような秩序を全て抑える条件を満たす物質を見つけた上で、さらに、その極めて純良な試料と精密な極低温測定を行う必要があります。そのため、その実現は長らく不可能であると考えられていました。
当研究グループは、高純度のPr2Zr2O7単結晶の合成に初めて成功し、精密な極低温熱力学測定を幅広く行いました。さらに理論面の検証を踏まえ、スピンと軌道の量子もつれによるスピン軌道ダイナミクスが量子スピンアイス状態を安定化させていることを見出しました。この量子スピンアイス状態は、高エネルギー物理分野で探索が続いている電気モノポール、磁気モノポールと等価な準粒子(注6) が固体の中で安定化しているトポロジカルに新しい状態であり、量子もつれの実験的制御を調べるうえで恰好の舞台となります。本研究は今後、スピン軌道液体状態を実現する物質設計の指針になることや、新規な励起の発見に貢献すると期待されています。本研究成果は英国科学誌「Nature Physics」の2022年12月1日号に掲載されました。
発表内容
研究の背景
自然界では、物質は主に固体、液体、気体の形で存在しています。物性物理学の研究では、自然をより深く理解するために「対称性」という概念を用いることがしばしばあります。例えば、液体が固体になると、原子は周期的なパターンを形成し空間の等方性を破るので、「空間並進対称性」が破れると言います。また、対称性の概念は「磁性」を含むより広い分野にも応用できます。例えばスピンは低温ではお互いに平行/反平行に“凍結”し、秩序を形成します。これは、「時間反転対称性(注7) 」を破ることで系全体のエネルギーを最小にできるためです。
ノーベル物理学受賞者であるAndersonは1970年代に「量子スピン液体(注8)」という磁性の常識を覆す概念を提案しました。「量子スピン液体」は、極低温でもスピンが長距離秩序を形成せず、アボガドロ数個のスピンが互いに量子的に絡みあい揺らいだままの不思議な状態です。今日に至るまで、量子スピン液体の候補は数多くが報告されていますが、完全なコンセンサスを得た物質はない状況です。さらに興味深い例として「量子スピン軌道液体」が提案されています。その名の通りスピンのみならず軌道も秩序せず動的なままの状態を維持しますが、前述した量子スピン液体よりも一層実現が困難であると考えられてきました。なぜならスピンと軌道は異なる時間反転対称性を有しており、エネルギースケールの異なる物理に支配されているからです。スピンは低エネルギーのスピン交換相互作用に駆動されますが、軌道は「ヤーン・テラー効果(注9)」によってエネルギーがはるかに高い格子の歪みに引っ張られ整列します。このような高いエネルギーを持つ軌道と低いエネルギーを有するスピンが同時に揺らぐ状態を実現するのは、困難だと考えられてきました。一方、理論的には「量子スピン軌道液体」はスピンと軌道の多体の量子もつれを理解する恰好の舞台として期待され、トポロジカルな量子状態として注目される量子スピンアイス状態を安定化するなど、その実現は現代物性物理学において重要なテーマの一つでした。
当研究グループは、これまで、反強磁性体においてスピンの非線形構造を制御することで現れる新しい量子現象、特にメモリ効果を伴う磁性・スピントロニクスの研究を進めてきました。そのなかで、パイロクロア磁性体Pr2Ir2O7の磁性を担う3価のプラセオジムイオン(Pr3+)がアイスルールに従うスピン配列を示すこと、さらには、従来型スピンアイスには無いスピンの量子的な揺らぎにより、不揮発メモリ効果を持つホール効果を発現することを見出してきました。
研究内容と成果
今回、当研究チームは、磁性イオンのPr3+がパイロクロア格子を形成するPr2Zr2O7という絶縁体物質に着目し、非常に高品質なPr2Zr2O7単結晶の合成に成功しました。Pr3+はf電子を二つ持ち合わせており、この偶数個の電子がスピン軌道液体を実現する鍵になっています。Pr2Zr2O7の基底状態はこの偶数個のにより、非クラマース二重項(注10)という特殊な時間反転対称性を有し、スピンと軌道のエネルギースケールが合致します。すると、一方が揺らぐともう一方も揺らぐ状態、すなわち、スピンと軌道の量子もつれ状態を実現することができるのです(図2)。しかし、非クラマースイオンはその性質上、結晶環境を僅かに変化させる微量の乱れでさえ物性を変化させてしまいます。このため、通常のクラマース系で用いられる高品質な結晶でも役者不足になります。本研究では、放射光X線を含む結晶学的な解析と、極低温磁化、核四重極共鳴、比熱の物性測定の両面から、現存するPr2Zr2O7単結晶の中で最高純度であることを確認しました。
Pr2Zr2O7の単結晶は、フローティングゾーン法という多結晶を焼結した原料棒を高温で溶かし冷却過程で単結晶を成長させる方法で合成しています。研究チームは、原料棒を従来に比べて大幅に細くすることで、ムラの無い均一な単結晶が得られると考えました。細い原料棒は折れやすく、また合成装置への設置を通常よりも精密に行う必要があるといった理由で、扱いが格段に難しくなります。研究チームはこのような技術的困難を克服し、さらに度重なる配合レシピと合成条件の改良をもって、今回の高品質な単結晶の合成に成功しました。
その上、高精度な超音波、磁歪、熱膨張という試料の長さ変化を測る測定と誘電率測定を総合的に行い、極低温でも長距離秩序が無いことを見出しました。特に、極低温での磁歪による試料の長さ変化は非常に小さく、その測定は富士山の高さに比べてピンポン玉の大きさの変化を見分けられるくらいの高い精度を要します。また、ほぼ絶対零度(-273℃)の極低温環境を作りだすために希釈冷凍機が用いられました(量子現象の研究に必須であり、量子コンピュータにも用いられています)。これらにより、スピンと格子歪みが強く結びついていることを見出しました。
さらに、磁場中のPr2Zr2O7単結晶で、スピンアイスの特徴であるシャープなメタ磁性転移を発見しました。通常の磁性体では、転移後のスピンは秩序化し、対称性を破るのが一般的ですが、Pr2Zr2O7におけるメタ磁性転移は、対称性の変化を伴わないことから、磁性体では非常に稀な液体-気体型の相転移であることを示唆しています。また、理論面においては、四極子(軌道)が格子の歪みに直接結合するので、「格子」はスピンと軌道の揺らぎを強めることができると提案されました。すなわち、通常軌道を整列させる結晶格子の歪みが、Pr2Zr2O7ではスピンと軌道の量子的な絡みあい実現するという全く新しい機構が明らかになりました(図3)。
今後の展望
我々の研究開発したPr2Zr2O7は、スピン、軌道、格子の自由度を持つf電子系であり、さまざまな相互作用が複雑に絡み合っている量子物質と言えます。スピン格子間の相互作用や電子相関のどれかが強くなりすぎてしまうと、系はあっという間に磁気的、電気的、あるいは構造的な秩序状態に陥ります。同研究チームが合成した非常に高純度なPr2Zr2O7ではあらゆる相互作用のバランスが精緻に保たれており、それによりスピン軌道液体状態を初めて実現することに成功しました。さまざまな自由度が複雑に絡み合った量子多体現象は、現代物性物理学における研究テーマの宝庫となっており、また、その巨視的な量子もつれの効果は次世代の量子技術の恰好の研究対象です。スピン軌道液体はまさに量子多体物理と量子技術を体現する概念の中心にあります。量子技術として、量子コンピュータや量子センサの開発が進む中、既存の候補物質のみでは克服が難しい技術的難関があります。よって、さらなる性能向上に向けた新規量子技術を実現する物質の開発は大変重要な研究課題です。本研究は、今後スピン軌道液体を実現する物質設計のガイドラインになるとともに、新規な量子制御技術の発見に貢献すると期待されます。
なお、本研究は、科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)「トポロジカル材料科学に基づく革新的機能を有する材料・デバイスの創出」研究領域(研究総括:上田 正仁)における研究課題「電子構造のトポロジーを利用した機能性磁性材料の開発とデバイス創成」課題番号 JPMJCR18T3(研究代表者:中辻 知)の一環として行われました。
発表雑誌
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雑誌名 Nature Physics 論文タイトル Spin-orbital liquid state and liquid gas metamagnetic transition on a pyrochlore lattice 著者 N. Tang†, Y. Gritsenko†, K. Kimura†, S. Bhattacharjee, A. Sakai, M. Fu, H. Takeda, H. Man, K. Sugawara, Y. Matsumoto, Y. Shimura, J. -J. Wen, C. Broholm, H. Sawa, M. Takigawa, T. Sakakibara, S. Zherlitsyn, J. Wosnitza, R. Moessner, S. Nakatsuji*
*責任著者DOI番号
用語解説
注1 量子もつれ
物質を構成する小さい粒子同士が互いに強く結びつく現象。 一旦二つの粒子に量子もつれの関係ができると、どんなに遠く引き離されても片方の粒子の状態が変化すると同時に、もう一方の粒子の状態も瞬時に変化します。この量子もつれ状態を操作することができれば、量子暗号技術を含め、様々な技術に応用することができます。↑
注2 パイロクロア格子
正四面体が頂点共有をして連なった結晶格子のことを指します。パイロクロア磁性体では、磁性イオンが各正四面体の頂点に位置します。↑
注3 スピン軌道ダイナミクス
スピンとは、自転に譬えられる電子の自由度で、磁性体における微小な磁石(磁気モーメント)のことを言います。磁性体は通常巨視的な数のスピンが、何らかのパターンに整列する磁気秩序を示します。典型的な例として、スピンが一様な方向にそろう強磁性体と、隣り合うスピンが反平行に配列する反強磁性体があります。軌道とは、結晶中の一電子の運動状態を表わす波動関数であり、おおざっぱには電子が存在する領域と捉えることができます。軌道は種類によって異なる形を持ちます。スピン軌道ダイナミクスとは、スピンと軌道がお互いに影響を及ぼしあい揺らいでいる様のことを言います。↑
注4 スピンアイス
常圧において氷はパイロクロア格子構造をとり、共有する二つの正四面体の中心に位置するO2-イオン一つに対して、近隣の四つの水素イオンH+のうち二つが近くに、残りの二つは遠くにいる配置条件(=アイスルール)を満たしています。同様な状況は、H+イオンの変位を上下二方向にしか向かないスピン(イジングスピン)に置き換えたスピンアイスと呼ばれる磁性体にも現れます。スピンアイスでは正四面体の頂点にイジングスピンが配置されており、四つのイジングスピンのうち、二つは正四面体の内側を向き、残りの二つは外側を向きます(=アイスルール)。この構造を“2-in, 2-out”と呼びます。
量子スピンアイスとは、量子力学的効果(図2に示す横ゆらぎSx, Sy成分)が加わり、異なる2-in, 2-out構造間を量子力学的にトンネルさせている磁性状態です(図3)。また、量子スピンアイスは従来の磁性体のような古典的な長距離秩序ではなくトポロジカルな秩序を有しており、まったく乱雑な状態とは一線を画しています。さらに、このトポロジカルな性質による新奇な準粒子(注6)の存在が予言されており、基礎物理のみならずデバイス開発の応用面からも注目を浴びています。 ↑注5 メタ磁性転移
磁場を印加し、ある磁場で磁化が急激に増大する現象のことを指します。スピンアイスを特徴づける現象の一つです。↑
注6 準粒子
一つの粒子が全体として最もエネルギーの低い量子状態(基底状態)から外れて動きだすと、周囲の粒子も影響されて動きだします。このような運動は一見一粒子の運動のように見えるので、準粒子と呼ばれます。物体が水の中を通過するとき、周りの水は物体に道をあけるように流れますが、準粒子は周囲の流れを伴って動く物体のようなものと思えばよいでしょう。量子スピンアイスでは、「フォトン」、「電気モノポール」、「磁気モノポール」の三種類の準粒子が現れると予言されております。そのうちとりわけ磁気モノポールが注目を浴びています。磁石のS極とN極を分割することはできないと信じられてきましたが、大統一理論では、宇宙初期の高エネルギー状態ではS極とN極が別々である磁気モノポールが存在していたと考えられていました。しかし、決定的な実験の観測には至っていません。スピンアイスにおける磁気モノポールは、高エネルギー物理分野で探索されてきた素粒子と酷似した性質を持つ準粒子であり、それゆえ固体物理学者のみならず高エネルギー物理学者を含め、幅広い研究者から大きな注目を集めています。↑
注7 時間反転対称性
時間の流れを逆向きにしたときの状態の変化。変化する(しない)場合は、時間反転対称性が奇(偶)であると言います。スピンは時間反転対称性が奇なので、整列した磁気秩序状態では時間反転対称性は破れます。対して、軌道は偶なので、時間反転対称性を破ることはありません。スピン(軌道)は時間反転対称性が奇(偶)なので、同じく時間反転対称性が奇(偶)である磁場(格子歪み)と直接結合します。軌道と格子歪みの結合に関する詳しい説明は(注9)をご覧ください。↑
注8 量子スピン液体
スピンが絶対零度においても長距離秩序を形成せず、代わりに巨視的なスケールで絡み合い、新しい状態を形成する物質のこと。この巨視的な絡み合いはトポロジーで表現することができ、さまざまな量子スピン液体を分類する際の指標になります。↑
注9 ヤーン・テラー効果
結晶中の電子がどの電子軌道を選んでも系全体のエネルギーが変わらない状態(物理ではこれを“縮退状態”と言います)にあったとします。しかし、例えば温度変化や圧力を印加すると、格子は歪み、結晶構造はより対称性の低い原子配置に変化することがあります。この時、電子スピンは電子同士のクーロン反発を最小化できる特定の軌道に入り安定化します。このような軌道と格子歪みが結合する現象をヤーン・テラー効果と言い、さまざまなd電子遷移金属化合物で観測されています。↑
注10 非クラマース二重項
電子を奇数個含む系の電子状態が時間反転操作に対して、少なくとも二重に縮退していることをクラマース縮退と言います。また、このような縮退状態をクラマース二重項と言います。クラマース縮退は、時間反転対称性を破らない限り(磁場をかけない限り)、欠陥や乱れを導入し系の対称性を低くしても解けません。対する非クラマース二重項は、電子を偶数個含む系の電子状態が二重に縮退している状態のことですが、時間反転対称性に守られていないため、わずかな乱れでも二重項が分裂し、物性が変化してしまいます。↑