DATE2025.04.26 #Press Releases
高強度超短パルスレーザーを用いた超高分解能分光計測
—— 相対論効果による原子の電子密度分布の歪みを観測——
発表のポイント
- 本研究チームが独自に開発を進めてきた「強レーザー場超高分解能フーリエ変換分光法」に長尺干渉計を導入して計測精度を高めた結果、クリプトンイオン(Kr+)の2P1/2-2P3/2状態間のエネルギー差(微細構造分裂エネルギー)における同位体シフトを測定することに成功し、その結果から相対論効果によって電子密度分布が歪むことを確認しました。
- 原子の2P1/2-2P3/2状態間のエネルギー差の同位体シフトを高い精度で測定すれば、相対論効果による電子密度分布の歪みを明らかにできます。しかし、その測定例は40年程前のバリウムイオンとフランシウム原子の例に限られ、他の原子種では観測されていませんでした。今回、Kr+の微細構造分裂エネルギーの同位体シフトを高い精度(10-5 cm-1)で測定しました。これは「強レーザー場超高分解能フーリエ変換分光法」によって、初めて可能となりました。
- 「強レーザー場超高分解能フーリエ変換分光法」の測定精度をさらに高めれば、同位体シフトに基づいて、標準模型を超えた議論ができると期待されています。
クリプトンイオン(Kr+)の同位体シフト。
相対論効果により近似曲線の傾きが負となる。(本論文より転載)
発表概要
東京大学アト秒レーザー科学研究機構の山内薫特任教授と大学院理学系研究科の安藤俊明特任准教授、山田佳奈助教、岩崎純史教授らによる研究グループは、「強レーザー場超高分解能フーリエ変換(strong-field ultrahigh-resolution Fourier transform: SURF)分光法」(注1) に長尺干渉計(注2) を組み込むことによって、クリプトンイオン(Kr+)の2P1/2-2P3/2状態間のエネルギー差(微細構造分裂エネルギー注3 )における同位体シフト(注4) を高い精度で測定し、相対論効果によって電子密度分布が歪むことを確認しました。
原子の微細構造分裂エネルギーの同位体効果は、相対論効果による電子密度分布の歪みを観測する理想的な系であることが知られています。しかしながら、実験上のさまざまな制約のために、その報告例は、この40年程前のバリウムイオンとフランシウム原子についての報告に限られていました。このSURF分光法の測定精度をさらに高めれば、同位体シフトに基づいて、標準模型(注5) を超えた議論ができると期待されます。
発表内容
本研究では、「強レーザー場超高分解能フーリエ変換(strong-field ultrahigh-resolution Fourier transform: SURF)分光法」に長尺干渉計(光路差5.2 m)を導入することによって、クリプトンイオン(Kr+)の微細構造分裂エネルギーの同位体シフトを高い精度(10-5 cm-1)で測定しました。
以下のようにSURF分光計測を行いました。まず、ポンプレーザー光(パルス幅5.9 fs,波長 550–1000 nm, 集光点強度8x1014 W/cm2)によってKr+をトンネルイオン化(注6) します。トンネルイオン化によってレーザー電場方向に広がりの大きな電子軌道から電子が放出されるため、イオン化に伴い2P(mL= 0)の状態が生成されます。質量数が偶数の同位体種(AKr+, A = 80, 82, 84, 86)の場合、この2P状態は2P1/2と2P3/2を重ね合わせた電子波束(注7) として生成するため、電子波束は、時間の経過とともに2P(mL= 0)と2P(mL= ±1)の状態を行き来します(図1)。
図1:Kr, Kr+, Kr2+ のエネルギーダイアグラム
この往復の周期(τSO)から、その逆数に相当する微細構造分裂エネルギーを得ることができます。そして、遅延時間をおいてプローブレーザー光(パルス幅5.9 fs,波長 550–1000 nm, 集光点強度8x1014 W/cm2)を照射することによって、Kr+をさらにトンネルイオン化して2価イオンKr2+を生成します。
このとき、Kr+の2P(mL= ±1)状態のイオン化確率は2P(mL= 0)状態のイオン化確率よりも高いため、Kr2+希ガス二価イオンの収量が、τSOの周期で振動します。質量数が奇数の83Kr+の場合、波束は核スピン(I)と電子の全角運動量(J)の相互作用によって複雑な振動をします。それぞれの同位体について、その2価イオンの収量をフーリエ変換することによって、微細構造分裂エネルギーと83Kr+の超微細構造分裂エネルギーを決定できます。
このSURF分光法では、他のフーリエ分光法と同様に、遅延時間の掃引幅を広げれば広げる程、測定精度を高めることが出来ます。本研究では、長尺干渉計(図2)を真空チャンバー内に設置し、遅延時間の掃引幅として13 nsを達成しました。これは光路差として、5.2 m に相当します。
図2:長尺干渉計の模式図。
ポンプ光・プローブ光(Few-cycle NIR pulse)とともに、遅延時間計測のためのHe-Neレーザー(Frequency-stabilized He-Ne laser)を導入している。(本論文より転載)
同位体シフトのうちのフィールドシフト(注4) を表すフィールドシフトパラメーターは原子核付近の電子密度の2P1/2と2P3/2準位の差を反映しますが、相対論効果を考えない場合、2P1/2と2P3/2準位にある電子が原子核付近に作る電子密度分布は互いに等しいため、フィールドシフトパラメーターは0(ゼロ)となります。これは、p1/2軌道とp3/2軌道の原子核付近の電子密度がどちらも0であることを反映しています。しかし、実際には相対論効果が存在し、p1/2軌道の原子核付近の電子密度が0ではないため、フィールドシフトパラメーターがゼロでない値を持つことが予想されます。本研究の測定で得られた微細構造分裂エネルギーをプロットしたものが図3になります。このプロットを直線フィットした結果、フィールドシフトパラメーターが負の値をとることが分かりました。このことは、p1/2軌道の電子密度分布の歪みを観測したことに相当します。
なお、長尺干渉計の開発にあたっては、国立天文台助教の西川淳先生からご助言を頂きました。ここに西川先生に感謝いたします。
図3:クリプトンイオン(Kr+)の同位体シフト。
相対論効果により近似直線の傾きが負となる。(本論文より転載)
論文情報
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雑誌名 Physical Review Research 論文タイトル Isotope shift of fine structure of Kr+ and hyperfine structure of 83Kr+ by strong-field ultrahigh-resolution Fourier-transform spectroscopy著者 Toshiaki Ando, Kana Yamada, Atsushi Iwasaki, *Kaoru Yamanouchi (*責任著者) DOI番号 10.1103/PhysRevResearch.7.L022025
研究助成
本研究は、科研費「サブフェムト秒分子イメージング(課題番号:JP15H05696)」、「強レーザー場フーリエ変換分光法による分子および分子錯体の超高分解能分光(課題番号:20H00371)」、「強レーザー近赤外数サイクルパルスを用いたクラスターのフーリエ変換振動分光(課題番号:19K15500)」、「周波数コム技術を用いた水素分子の強レーザー場フーリエ分光法(課題番号:24K08335)」の支援により実施されました。
用語解説
注1 強レーザー場超高分解能フーリエ変換(strong-field ultrahigh-resolution Fourier transform : SURF)分光法
高強度レーザーパルス(ポンプ光)を原子・分子に照射することによって量子波束(注7 を参照)を生成し、プローブ光によって解離(分子の場合)・イオン化を起こす。得られたイオン収量をフーリエ変換することによって、原子の電子スペクトル、分子の回転・振動・電子スペクトルを得る。計測精度はスペクトル分解能、S/N比によって決まる。本計測の場合、分解能は0.0025 cm-1, S/N比は約200であり、精度は10-5 cm-1程度となった。↑
注2 長尺干渉計
光路長の掃引幅の長い干渉計。光路長を延ばすことによってフーリエ分光の時間分解能を高めることができる。ただし、その実現のためにはレーザー光の回折、装置や測定環境の揺らぎの影響を抑える必要がある。↑
注3 微細構造分裂エネルギー
原子のエネルギー準位は電子のスピンと電子の軌道角運動量の間に働く相互作用(スピン軌道相互作用)によって微細に分裂する。その分裂幅を微細構造分裂エネルギーと呼ぶ。↑
注4 同位体シフト, フィールドシフト
原子のエネルギー準位は同位体によってわずかに異なり、同位体シフトと呼ばれる。同位体シフトには、原子核の重さの違いに起因する寄与(マスシフト)と原子核の大きさの違いに起因する寄与(フィールドシフト)がある。さらに、原子核を構成する中性子と電子の相互作用によって、同位体シフトが起こる可能性が提唱されている。↑
注5 標準模型
電磁相互作用、弱相互作用、強相互作用の3つの力を量子として扱い、素粒子がどのように相互作用するかについて記述するためのモデル。素粒子の性質やヒッグス粒子の存在の予測などの大きな成功を収めているが、未解決の問題もある。↑
注6 トンネルイオン化
原子や分子に高強度レーザー(>1014 W/cm2)が照射されると、原子・分子内の電子が感じるポテンシャルが大きく歪められる。この歪んだポテンシャルの障壁をトンネル効果によって電子が通り抜け、結果としてイオン化が起こる。この現象をトンネルイオン化と呼ぶ。↑
注7 電子波束
一般に、2つ以上の固有状態の重ね合わせで表される状態を量子波束と呼ぶ。そのうち異なる電子状態の重ね合わせで表される状態を電子波束と呼ぶ。分子の場合は、振動、回転の固有状態重ね合わせで表される状態を、それぞれ振動波束、回転波束と呼ぶ。量子波束の時間発展の速さは、波束を構成する固有状態のエネルギーの差によって決まり、エネルギーの差が大きいほど、時間発展は速く起こる。↑