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理学部ニュース

エントロピー再訪

中村 栄一(化学専攻 東京大学特別教授/東京大学名誉教授)
中室 貴幸(化学専攻 特任准教授)

 

エントロピー(S)は1865年にルドルフ・ユリウス・エマヌエル・クラウジウス(Rudolf Julius Emmanuel Clausius)が 「熱量(Q)を温度(T)で割った値(SQ/T)」として定義した熱力学的な物理量である。 1877年にルートヴィッヒ・エードゥアルト・ボルツマン(Ludwig Eduard Boltzmann)が 微視的状態数(Ω)を用いて統計力学の枠組からS = kB ln(Ω)としてエントロピーを解釈した。 Ωが増えるとSが増えるので,エントロピーは乱雑さの指標となる。 だがΩをどのようにして実験で求めるのかが難問だった。われわれは電子線照射による結晶の無秩序化の確率から,エントロピー変化量ΔSdを求める方法を発見した。

高校化学では「エントロピーは分子の乱雑さの指標である」と教えるが,クラウジウスの定義SQ/Tからは,このことは読み取れない。それもそのはず,クラウジウスは,物質が原子や分子から構成されているとは思っていなかったのである。ボルツマンのS = kB ln(Ω)こそが乱雑さの指標となるわけだが,Ωの測り方が長年の課題だった。われわれは2019年から5年の歳月をかけて,結晶融解にともなうエントロピーの変化量ΔSfが,電子線による結晶回折シグナルの減衰速度(図a)から求めた物理量と一致することを発見し,これをΔSdと名付けた。図bに例示したようなさまざまな結晶についてΔSd = ΔSfが成り立つ。フェムトグラム量(10–15 g)以下のサンプルを用いてΔSdを求めるこの方法は,化学,材料,構造生物学など幅広い分野での革新をもたらすと期待される。 

新しい研究分野が展開するときの例に漏れず,この研究はエントロピーとは無関係の疑問から始まった。2007年に執筆者の一人(中村)が,透過電子顕微鏡によって,1分子の有機分子の動きの映像を捉えて以来,今日に至るまで「高速の電子は有機分子をぶっ壊す。だから,中村の研究はどこかが間違っている。」との批判が絶えない。そこで2019年春,当時修士1年生の劉 東欣君に,中室と共に電子線による有機分子分解の機構を調べてもらうことにした。中室の東大着任の2年目の初仕事である。

本研究の概略。a)マイクロ結晶の電子回折信号の減衰を定量化した。 b)ここに例示したようなさまざまな結晶について,ΔSd = ΔSfが成立する。

さまざまな結晶に電子線を当てて,回折シグナルの減衰速度の温度依存性を測定すると,結晶の種類にかかわらず速度定数がほぼアレニウス式における頻度因子Aだけに依存することが分かった。「有機分子は分解せず,配座変換をしているだけである。これまでの常識は間違っている。」と直ぐさま確信した。難関は,頻度因子Aの持つ意味の解明だった。同僚の山内薫教授の助力がなければ正解に達することは難しかっただろう。

当初,ln(A)が融解エンタルピーΔHfと相関するように思われた(2020年4月18日劉 東欣氏の研究報告)。検討を進めると,ln(A)と融解エントロピーΔSfがガス定数Rの逆数を介して強い相関を持つことがわかり(同年5月2日),ln(A) = aΔSf/R + ln(AINT)の式を発見した。当初はln(AINT)の意味が不明であり,aの値も確定できなかった。a=1.00が確定したのは,Science誌のEditorと面談で採択の決着を付ける3日前の2024年4月11日,さらにAINTが分子の無秩序化に関わる電子の散乱断面積であることを確信したのは,本稿執筆中のことである。研究は続行中である。

本研究成果は D. Liu et al., Science, 384, 1212 (2024)に掲載された。

 

(2024年5月31日プレスリリース)

理学部ニュース2024年9月号掲載

 

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