それ、エネルギー保存則に反してない?
たとえば、ある物質に長い波長の低いエネルギーの光を当てたら、短い波長の高いエネルギーの光に「変身」してはね返ってきた……。そんなことが起これば、「エネルギー保存則に反しているのでは?」と思うだろう。光のエネルギーは物質に当たると一定量失われる。だから、受け取った光より強い光が出てくるはずがないのだ。
ところが、楊井たちが作りだした「ある物質」は、受けた光よりも高いエネルギーの光を放つのだという。いったいなぜ、そんな現象が起きるのだろうか? 1が2になるなんてことが……。
「1が2になるのではなく、1+1で2にしているのです。つまり、一つの分子がエネルギーをもらい、同じようにもう一つの分子もエネルギーをもらう。この二つの分子が出会って二つのエネルギーが足し合わされ、光を放出するのです。1が2になったように見えるこの現象は、フォトン・アップコンバージョンと呼ばれています。ただし実際には1+1で2になるわけではなく、いくらかエネルギーが失われて1+1が1.5になったりします」
すでに楊井たちは赤外線を可視光に、そして可視光を紫外線に変換することに成功している。楊井はこのフォトン・アップコンバージョンにおいて世界をリードする研究者なのだ。この技術は、太陽光発電や人工光合成などさまざまな分野に革新をもたらすものとして大きな注目を集めている。
このフォトン・アップコンバージョンのメカニズムについて、もう少し詳しく説明してもらおう。
「分子が光を受けると、電子が励起(高いエネルギー状態になること)されて一つ上の軌道に移ります。もともと電子はペアを組んでいるので、この時、二つの電子のスピン(磁力の元となる量子の性質のこと。向きは上か下かの2方向だけ)の向きは《↑↓》となって打ち消し合っています。これを『励起一重項状態』と言うのですが、ここから元の状態(基底状態)に戻るときに電子は持っているエネルギーを光として放出します。でも、それはあっという間に消えてしまうためエネルギーを足し合わせることができません」
もっと長持ちさせ、エネルギーを足し合わせたい。そこで重要となるのが、分子を「光励起三重項状態」にすることだ。一重項が三重項に変わると何がどう違ってくるのか。用語そのものが面倒くさそうだが、簡単に言えば、電子のスピンの向きが一重項の《↑↓》から、《↑↑》《↓↓》といった同じ向きになるのが三重項状態だ。
「光励起三重項状態のものは一度スピンがひっくり返っているので、元の基底状態に戻るのに長い時間がかかります。一重項状態とくらべて1万倍以上も長生きなのです。この間に他の三重項の分子に出会い、電子のやり取りをし、そして再び元に戻るときにエネルギーが光として放出されます。この時、合体した分、元の一重項状態よりたくさんのエネルギーを持っているので、光のエネルギーが高くなるのです」
だが、言うは易く、行うは難し。理論通りに分子を光らせるのは至難の業であり、世界中の研究者が試行錯誤を繰り返しては頭を抱えてきた。その突破口を開いたのが、楊井たちだった。
地上に存在しなかった物質をつくる
「このメカニズム自体は以前から知られていたのですが、非常に効率が悪くて何かに使えるというものではありませんでした。たとえば、紫外線をつくり出して、高いエネルギーが必要な抗菌・抗ウイルスなど光反応に使いたいと思ったとき、いかにすれば我々の目に見える青色や緑色の光から紫外線を生み出せるのか。それにはどういう分子を設計・デザインすれば効率よくアップコンバージョンをおこすことができるのか。だれも答えを持っていなかったのですね」
その答えを探して、楊井たちはさまざまな分子をデザイン、つくり出しては実験で試すということを繰り返した。何百という分子についてコンピューターを用いて量子化学計算(分子内の電子の振る舞いを解明する計算)を行い、どういう分子構造ならどんな性質を示すのかを予測し、そして実際に新しい分子を化学合成して作り出すのだ。
「可視光の青色の光をどうやって紫外光にして出すか。これはとても複雑なメカニズムなので、 分子をデザインする際に考えないといけないパラメーターの数は膨大です。簡単に言えば、『光を吸収して三重項をつくる役割の色素分子』と『それを合体させて光る役割の色素分子』の2種類の分子が必要なのですが、両方ともうまくデザインしなければいけません。そのデザインをひじょうに精密に行うことで、可視光を高い効率で紫外光に変換することができたのです」
地上に存在しなかった物質をつくり出すというその過程は、まさに苦労の連続だったと楊井は言う。
「つくっては試し、うまくいかなければ、もう一回デザインし直してということの繰り返しです。一発でいいものが見つかることはないので、非常に時間のかかる作業です。たくさんの失敗がありましたが、その失敗の一つ一つが学びでした。ただ、つらいのは、いつゴールに辿り着くのか、誰にもわからない中で続けなければいけないということでしたね」
そんな苦しい行程で支えになったのが、チームが共有するある思いだったという。
「世界で誰もやっていないことをする。それはすごく面白いことなんだ、新しい価値があることなんだ。そういう気持ちを共有できているからこそ、あきらめずに続けようという気持ちが湧いたのだと思います。研究には失敗がつきものです。でも、この気持ちをみんなが持つことができていれば、何度失敗をしても乗り越えていくことができるのですよね」
フォトン・アップコンバージョンを太陽光発電や人工光合成などに用いるには、まだ多くの課題が残っている。とくに強い光を当てないとうまくいかないなど、光量と効率の問題があり、楊井たちのチームはその解決にいまも取り組む。
量子の時代に化学者としてできること
さて、話はまだ終わらない。冒頭で「光励起三重項」についてくどくど説明をしたのには理由がある。電子のスピンがひっくり返って《↑↑》になるという説明をしたが、「光化学」の研究を長く続ける過程で、楊井はこの光とスピンを用いて新しい地平を切り拓くことを考え始める。それは「超核偏極(ちょうかくへんきょく)」と「量子センシング」である。今やこちらのほうが研究室のメインのテーマになっていると楊井は言う。
「今は第二次量子革命の時と言われていますが、この量子の時代において、物質をデザインして生み出すことができる化学者として私たちは何ができるのだろう、どんな貢献ができるのだろうと考えるのですね。私たちはひじょうに精密に原子レベルで構造を設計し、その中にスピンを生み出すことができます。しかも、分子の構造を自由に変えて、分子の中に複雑なプログラムも組み込めます。そんな力を使って、量子の時代にできることを探そう。そういう方向に最近は向かっているのですね」
まず、「超核偏極」である。MRIはご存じだろう。病院で内臓や骨などを精密に検査するときに患者が入れられる、あの巨大な円筒形の装置だ。MRIで見ているのは核スピンである。つまり、人間の体内の水、その水素原子の原子核のスピンを見ているのだ。だが、光励起一重項と三重項で説明したように、スピンの向きは上下いろいろである。そして、人間の体内の水素原子の核スピンは、上向きと下向きがほぼ同じだけあるのだ。となると、スピンは磁力の元だから、上向きと下向きで打ち消しあうので磁力としてほとんど検知されない。でも、数万個のうち一つでも打ち消されない(これを「偏極」と言う)ものがあると、その磁力だけは見ることができる。言いかえれば、上向きのスピンと下向きのスピンの数の差分だけの情報をMRIは検知し、画像にしているというわけだ。つまり、MRIの見ているものは、実はものすごく情報量が少ないのである!!
「超核偏極」というのは、この打ち消し合う向きのスピンを減らすことで感度を上げようということなのだ。
「この分野はひじょうに歴史があって、現在、アメリカなどで治験が行われていて実用化が近いのは、電子スピンを使った方法です。スピンを上向きに揃えた電子から水素原子の核スピンに渡してスピンの向きを揃え、その後に体内に入れるというものです。ただし、これには電子スピンを揃えるためにマイナス270度以下に冷やす必要があるなど、装置も高価で大がかりになってしまうのですね。一方、私たちが取り組んでいるのは、室温でできて、しかもエネルギーもあまり使わない方法です。つまり、光を使うのです。私たちはフォトン・アップコンバージョンで光を使って分子を励起状態にするということをずっとやってきました。この励起状態を使うと、室温でも光を当てることでスピンを作り出し、核偏極した状態を作ることができるのです。この方法をMRIの高感度化に使いたいのですね」
具体的にどうするのかという質問に、楊井は「イメージとしては電子レンジでチンしながら光を当てるような感じ」だとしてこう言う。
「体の外で物質を電磁波と光で高感度化しておき、それを液体に溶かして注射で体内に送り込みます。体内に入れる前に、偏極した電子スピンを核スピンに渡しておくわけです。超核偏極しておいた造影剤みたいなものですね」
量子生命化学というフロンティア
さらに楊井は、この「超核偏極した造影剤のようなもの」を手軽に扱えるようにしようと考える。造影剤を体内の調べたいところにシュッシュッと吹きかけて光を当てるだけで、その場所を高感度化してMRIで見られるようにしたいというのだ。つまり、胃カメラで患部を調べるような手軽な感覚で使えるものにするわけである。
「お医者さんがMRIを見ている時に、『ここをもっと詳しく見ることができれば病気かどうか診断できるのに』と思ったとしても、今はそれができない。でも、私たちが作った物質を体内のその場所に振りかけて光を当てると、『ここはこういう状態なのか』ということがすぐにわかる。そんなことができるようにしたいのですね、分子をデザインする化学の力で」
分子に光を当てることでスピンをつくり出し、その状態を長く維持して目的の分子にうまく渡す。そういう基礎研究を長い間続けてきた楊井たちのチームは、いまでは非常に高い確度で超核偏極ができるようになってきたという。しかも、この超核偏極のために開発していた物質が、実は他の量子センシングにも広く使えることもわかってきたという。
「たとえば生きた細胞の中で温度を調べるのは、光検出の磁気共鳴(ODMR)という典型的な量子センシングなのですが、現在はナノサイズのダイヤモンドを細胞の中に入れて行っています。でも、我々が作った分子を量子センサーとして使えば、均一性に優れる分子のほうが非常に正確にその場所の温度を知らせてくれるのですね。分子を使って量子センシングするというのはとても新しい試みです。ここからとても大きな新しい分野が発展していくのではないかと感じています」
楊井は自らの研究のユニークさを、量子という物理の分野に、ものづくりができる化学者として乗りこんでいるところにあると言う。だからこそ生命現象の研究や医療に役立つ新しい量子センサーも生み出すことができる。そこに開ける新しい地平を、楊井は「量子生命化学」と呼ぶ。
「私が勝手に名づけたのですが、量子と生命という非常に離れたものの間に橋を架ける化学という意味です。化学は分子の量子状態を原子レベルで厳密に規定でき、デザインできる。かつ分子は小さくて毒性も低いので、体内に入れて生命のプローブ(探針)としても使える。つまり分子を設計し、作り出すことができる化学者というのは、量子を制御しながら生命にアプローチできる人たちなのだと捉えているのです」
Feel alone──独りになれ
京都大学出身の楊井は、ノーベル化学賞を受賞した北川進教授のもとで、学部生からドクターまでMOF(微細な孔を持つ物質で、たった1gでもサッカー場に匹敵する表面積を持つ)の研究に没頭した。恩師が北川教授というわけだ。
「北川先生によく言われたのは『Feel alone(独りになれ)』ということでした。MOFばかりやるのではなく、そこから外に出ていき、知らないことばかり、知らない人ばかり、そういうところに行って勝負するのだと。そうすることで自分の研究のオリジナリティが生まれるのだと、そんなことを教えてくれました。常に、フォロアーになるな、パイオニアでないといけないということ、そして木ではなく森を見ろと。そういう価値観を学びました」
そして、自分の人生をかけて新しい分野を生み出すことに挑戦したのだと言える研究者人生を歩んでいきたいと語る。
そんな楊井に、若い世代へのアドバイスを聞いてみた。
「高校生や学部生のうちに人生の目標や夢が見つからなくても私は全然かまわないと思います。焦らずに、自分が面白いと思うことにどんどんチャレンジして、それを続けていく中で、いつかどこかで『あ、これだ。これが自分のやりたいことなんだ』というものが見えてくる。それがいつなのかは人によって違うと思います。周りを気にしすぎずに、ちゃんと自分と向き合っていくのがいいんじゃないかなと思います。一生かけてやりたいことが見つかって、それに打ち込めるという人生はきっと幸せです。ぜひそういうものを焦らずにじっくり見つけていってほしいと思います」
プライベートでは子どもと遊んだり、ジョギングをしたり。週末の料理担当もこなす。
「化学者は料理好きというのはよくあるみたいですよ。得意料理ですか? 家族からよくリクエストされるのは、肉まんかな。生地から発酵させて、蒸したての美味しいやつを作ります」と胸を張る。
中国語で肉まんは「包子」。なにかしら、分子に似ている……。
※2026取材時
取材/文:太田 穣
写真:貝塚 純一


