アクティブマター物理学とは?
たとえば夕暮れ空を巨大な妖怪一反木綿(いったんもめん)のように旋回するムクドリの群れ。あるいは、海中で大きな渦巻きを作って敵をあざむくイワシの群れ。海ではなく地面に渦を巻いてグルグル行進して山のような塊を作るグンタイアリの群れ。みな、まるでリーダーがどこかにいて統率しているかのような見事な集団行動を見せる。もちろん、リーダーもいないし、振付師もいない。それなのに、なぜあの群れたちは一糸乱れぬ集団行動ができるのだろうか。その謎に取り組むのが西口大貴の研究である。──と書くと、それは生物学の分野であって、物理学とは関係ないのではと思うかもしれない。だが、西口いわく、これは「非平衡統計物理学の中のとくにアクティブマター物理学と呼ばれる分野なんです」。
アクティブマターとは、すなわち自ら動きまわる要素が集まってできている物体。つまり、集団や群れを一つの物体(マター)と見なし、その背後に横たわる普遍的な法則を見つけ出そうというのがアクティブマター物理学なのだ。ムクドリ一羽が、イワシ一尾が、グンタイアリ一匹が、いわば自ら動く一つの速度ベクトル。その「矢印」の集団がアクティブマターなのだ。
「普通の原子・分子からできている物質ではなく、自ら動きまわる分子からできている物質の性質を探るのがアクティブマター物理学です。その一つ一つが外から動かされてるのではなくて、泳ぐとか飛ぶとか、エネルギーを使って動いている。そういう非平衡な“分子”からなっている物質の性質を研究し、そこに新しい物性を探るということをしているのです。従来の物質には見られなかった、新しい性質を見つけ出せるところが面白いのです」と西口は語る。
非平衡統計物理学とは、統計物理学(統計力学)の一つの領域で、文字通り、非平衡系を対象として扱う。テーブルの上の室温と同じ温度の水で満たされたグラスの中が平衡系(平衡状態)なら、お湯を注いでインスタントコーヒーの粉をスプーンでかき回している最中のカップの中は非平衡系(非平衡状態)だ。つまり、外からのエネルギーの流入がなく、温度、圧力、体積などが一定となった状態が平衡系であり、その平衡系へと到達していない、たえずエネルギーの流れがあるような状態が非平衡系だ。たとえば風も温度もたえず変化する大気は非平衡系だし、生きている細胞もまた非平衡系だ。この複雑きわまりない系(区域)を、統計力学の考えを用いて探るのが非平衡統計物理学である。言いかえれば、アクティブマターは非平衡系だということだ。
さて、話がややこしくなる前に、西口がアクティブマター物理学に惹かれたそのわけをまずは語ってもらおう。
生き物と実験が大好きだった少年時代
子どものころから、西口は生き物が大好きだった。
「いろいろなものを飼っていました。犬はもちろん、うずら、ザリガニ、亀、ハムスター、セキセイインコ、文鳥、鯉、カブトエビ……。ニワトリも飼っていてベランダでコケコッコーと鳴いていました。お祭りで買ってきたヒヨコから育てたんですが、鳴き声が近所迷惑になってきたので、父親が牧場に連れてっちゃいましたけど(笑)。動くものが好きなんですね。実空間でカメラで捉えられるような、目で見て面白く美しい現象が出てくるのが非平衡統計物理学の特徴なのですが、それが生き物とつながってくるというところにアクティブマター物理学の面白さを感じたのだと思います」
物理学自体にも少年の頃から大きな興味を持っていたという。
「子どものころは科学の祭典や科学館とかに連れていってもらうのが楽しかったですし、子ども向けの科学事典も寝る前に読んでもらったりして、科学への興味はずっと続いていました。とくに物理は自分の手で実験ができるのが楽しくて、高校に入ると自分で物理部を作って、放課後には友だちと物理実験をして遊んでいましたね。そのときに、全国物理コンテストというものがあるのを知って、もちろん挑戦しました。ラッキーなことにそこで少し成績がよかったので、国際物理オリンピックにも行かせてもらいました。物理コンテストの運営には多くの大学の先生たちも携わっていて、そこで僕は生まれて初めて実際の物理学の研究者という人たちに出会うわけです。その人たちがとてもいきいきとサイエンスについて語る姿に、僕は強い憧れを抱きました。それが研究者を志したきっかけですね。大学入学後に東京大学サイエンスコミュニケーションサークルCASTというのを立ち上げて、実験教室やサイエンスショーなどをしましたが、それも、そんな憧れがもとでした」
統計物理学への興味が駆り立てられたのは、駒場キャンパスでの教養科目でのこと。とはいえ、非平衡系への関心はすでに高校の時に芽生えていたという。
「粉体の研究者の方が高校に講演に来られたことがあり、それがとても面白かったのですね。物理学のイメージだと超伝導だとか宇宙だとか素粒子とかが思い浮かぶのですが、そういうものじゃないところにも物理学の最先端がまだまだたくさんあるんだと、そのときに知りました。大学に入ってから、自分で粉体の実験をして、五月祭で粉体の研究発表をしました。ちなみに、粉体というのは、いわばたくさんのビーズの集まりのようなものをイメージしてもらえばいいのですが、この粉体をたとえば上下に振動させると格子状のパターンが自然に現れるなど、外からの力の与え方しだいでいろいろな模様が出現するのです。この粉体が自分で動き始めればアクティブマターとして扱えるわけで、そういったつながりもあって、アクティブマター物理学に行き着いたという感じです」
博士課程修了後、西口はフランスのパスツール研究所に研究員として、およそ2年間勤める。パスツール研究所は微生物や伝染病の研究のいわば聖地である。物理学者の西口はなぜ生物学・医学の研究機関へと向かったのだろう。
「僕はバクテリアを使って実験をしていたのですが、微生物のことをもっと深く知る必要があるという思いがあり、微生物研究が盛んなパスツール研究所に身を置こうと思ったのが理由の一つでした。加えて、実はフランスはアクティブマター物理学がとても盛んな国です。ですから、一度はフランスに行かなければいけないと思っていたんです」
パスツール研究所では、物理学科では難しい、病原性のバクテリアと人間の培養細胞を用いた実験にも挑むことができ、視野を大きく広げることができた有意義な2年間だったと西口は振り返る。
一匹でも難しいのだから集団ならもっと難しい
「統計物理学とはミクロとマクロをつなぐもの」という言われ方がよくされる。分子や原子というミクロの世界における物質のふるまいは量子力学などで正確に記述できる。しかし、そのミクロの集まりであるマクロの世界のふるまいは、ミクロな振る舞いだけからは予測できない、まったく別の秩序と構造を持っている。統計物理学は、この二つのスケールの異なる世界をつなぐ普遍的な法則を見出そうとする。それはきわめて複雑で難しい研究領域である。西口が「一匹(あるいは原子1個)でも難しいのだから、集団になるともっと難しい」と語る所以だ。
「統計物理学から見えてくるのは、ミクロな世界では挙動がまったく違う、異なる物質たちの間に、マクロな世界では同じ普遍的性質が出てくるということです。ミクロとマクロを繋ぐ普遍法則ももちろん興味はあるのですが、僕はむしろ、〝マクロな世界で異なる系にまたがる普遍法則〟のほうにより興味があるのです。そこが一番の面白さだと思います」
そんな統計物理学の一つであるアクティブマター物理学が、西口が大好きな生き物の世界の謎を解き明かす上でとても重要な役割を果たす、その理由をこう語る。
「自然界には階層性があって、原子・分子のレベルだったら量子力学という方法論があり、人間のスケールだったらニュートン力学が、もっと大きければ相対性理論などが必要になってきます。それぞれのスケールで切り出した有効理論が考え出されていて、たとえば日常世界を考えるときには、わざわざ量子力学を持ち出さなくても成立する理論体系があるわけです。では、生物学ではどうかというと、遺伝子の代謝から細胞の運動、細胞集団の運動、組織や個体の運動、群れの行動、生態系など、いろいろなスケールがありますが、それぞれの階層切り出して理論を作れるかというとかなり難しいのですね。たとえば、細胞が動きまわると組織の形が変わる。形が変わると、細胞がどう閉じ込められているかという境界条件が変わるので、それが細胞の運動に影響を与え、フィードバック・ループがたくさんできてしまう。つまり、細胞だけとか組織だけとかきれいに抜き出すことができず、それぞれが他の階層と結びついていることが多いのです。そんな中で、アクティブマター物理学は、たとえば細胞の集団の単純な運動や群れというところを切り出して、有効な理論的記述を作ることに成功してきているのですね」
すでに書いたように、西口が実験に使うのは、ムクドリやイワシではもちろんなく、枯草菌や大腸菌など、扱いやすいバクテリアだ。また、生物ではない粒子(コロイド)を用いることも。それはきわめて小さいガラス玉の半分を金属で覆ったもので(ヤヌス粒子と呼ばれる)、溶液の中に入れて電圧を掛けるとコロイドに電荷が生じて動きまわる。そのため、自己駆動コロイドと言う。これだと電圧や周波数を変えることでコロイドの動きを自在にコントロールできるのだ。そんなふうに、さまざまな環境に置いた、群れをなして動きまわるバクテリアやコロイドを顕微鏡で観察する。そこに、かつて粉体の研究で見たような、さまざまな模様、秩序、構造が現れ出る。西口はときにその美しさに見とれる。
「自分のアイデアでおこなった実験で、そこに見るからに美しい現象が現れると、それを僕は論文にするわけです。そしてその現象を捉えた動画を、講演や学会で見ていただく。その後、統計物理学、数学的な解析をした結果見出した、その美しさの裏にある数理構造、物理的な理解自体もまた美しいことを理解してもらう。そしてまたもう一度、その現象の動画をあらためて見てもらうと、もっともっと美しく感じて感動してもらえるのです。そういった自分の感動や美しさを共有できること。それが研究してる中で一番嬉しいことです」
メダカの学校を作りたい
もちろん、西口の仕事は美しい模様を探すことではない。生命であるか非生命であるかを問わず、自ら動きまわる物体が群れを作る、つまりおのずと秩序構造を持つようになるのはなぜか、その謎を解き明かし、そこに数理的な構造を見出すこと、それが西口の研究だった。それゆえに西口がおこなっていることは、さまざまな次元・レベルにわたり、簡単には説明しきれない。たとえばバクテリアである。べん毛をスクリューのように回転させて動く大腸菌は、壁状のものに接近していくという性質がある。実はこの動きは大腸菌が泳ぐときに作り出す水の流れ、つまり流体力学で説明できる。そのように一つ一つの個体の動きは統計物理学ではない視点から解明できる。そのように、集団運動が発生するその最初のメカニズムは西口らの研究によって明らかにされている。だが、西口の研究はそこで終わりではない。
「集団になった時に普遍的な法則が出てくることを期待しているので、やはり集団のほうに興味の重点はあるのですが、そのためにも一匹の運動というものを理解する必要があります。その一匹レベルでの運動の振る舞いが変わった時に、それがマクロな普遍性にどれぐらい影響を与えるのか、あるいは普遍的じゃなくなってしまうのか、はたまたどのレベルまでずらしても普遍的な構造が保たれるのかというのは非常に重要な問題なのですね。そういう意味でもやはり一匹を研究しつつも集団の理解を深めていくということが、相補的で重要なものだと思うのです」
集団をターゲットとしたときには、研究は非平衡統計物理学、つまり統計力学的アプローチという面が大きくなっていく。バクテリア一匹を速度ベクトルとして考え、そこにいくつかの条件を設定し、アクティブマター物理学の先達らによってすでに提案されている数理モデルをもとに、群れのシミュレーションをコンピューター上でおこなうことも大事な「実験」だ。そうやって、西口は意図的に群れを作り出すのだ。生きているバクテリアではバクテリアを閉じ込めた流体層の高さや障害物など幾何的な条件を変化させることによって。
ところが、多くの実験で観察されるのは、秩序だった群れの運動ではなく、たくさんの小さな集団が乱雑に動きまわる状態でしかない。これをバクテリア乱流やアクティブ乱流と呼ぶ。ところが、この乱流の中に直径20µm程度の微小の柱を何本も立てると、柱の間に安定した渦ができることを西口は発見している。これを、流体力学やトポロジーなどさまざまな視点を組み合わせて、解明、発展させていくのだ。
「世界は非平衡系だらけです。だから、アクティブマターを理解すれば発生生物学などの理解につながるでしょうし、自分の身体を含めた生命の理解にもつながるはずです。実際にそういう方向性の研究も出てきていて、僕もそういった研究をしたいと思っています。人間の培養細胞の研究をしているのもそのためです。バクテリアでしてきた実験を人間の細胞でさらに発展させることで、生理現象や発生生物学につながるような研究に少しでも貢献できればいいなと思っています。もう一つ別の方向性としては、やっぱり生き物好きというのと関係するのですが、物理的な立場から生き物の生態や群れの挙動というものの物理的な制約、あるいはそこにある普遍的な行動というものを純粋に見出したいという思いがあります」
高校生、学部生へのメッセージをお願いすると、西口はこう話してくれた。
「広いレンジの興味を常に持ち続けていれば、自分が本当にやりたいことがある日突然見えてくる、そういう感じがします。僕自身が、そんなふうにしてアクティブマター物理学に行き着いたのですから。広くさまざまなものに興味を持っていろいろ勉強したり調べたりしていたら、きっといいことがあるんじゃないか、そう思いますよ」
家庭では一歳の女の子の父。「お気に入りのバクテリアの動画は娘に見てもらってます。喜んで見ていますよ。ただ、パソコンの画面をバンバン叩かれるのが心配で」と西口は楽しそうに笑う。
「妻も研究者で、同じ非平衡系をやっています。家でもよく研究の話をしますね。うまくいった実験の動画を見せて、キレイでしょう、これがこうなってとか、説明したりしています」
趣味を尋ねるとこんな答が返ってきた。
「わざとらしく聞こえるかもしれませんが、水族館とか動物園は好きでよく行っています。イワシの群れをじっと飽きずに見ています(笑)。この間も娘と一緒に行って、イワシの群れについて解説してあげました(笑)。いま、家で魚を飼って群れの実験ができないかなと思ったりしているんです。メダカの学校ですね。娘が小学生になったら、自由研究で一緒にやろうかなと、勝手に計画しています」
ちなみに、2021年ノーベル物理学賞を受賞したローマ・ラ・サピエンツァ大学教授のジョルジョ・パリージ博士は、アクティブマター物理学の研究者でもあり、ムクドリの群れを研究しているそうである。メダカの学校だからと、軽く見てはいけないのだ。
※2023年取材時
文/太田 穣
写真・動画/貝塚 純一
西口大貴HP:https://sites.google.com/site/daikinishiguchi/
▼西口大貴博士が自身の研究と研究者としての人生について説明するインタビューを、リガクルのポッドキャストで限定公開しています。ぜひお聴きください。
https://spotifyanchor-web.app.link/e/Eq9Hi7WB7Ab