顕微鏡のレンズの先に広がる美
大杉教授が生物化学専攻*の大学院生だったときのことである。
「ある日、先輩にくっついて細胞生物学会に行ったんです。すると、とても綺麗な細胞の写真が載ったポスターが貼ってあって、それを見て、『たぶん、私、こっちのほうが好きだな』って思ったんです(笑)。当時のわたしの研究分野は分子生物学で、生化学的な解析の結果を白黒のバンドで検出する実験ばかりで。いわゆるモノクロの世界だったのです」
博士課程を修了すると、大杉はポスドクとして東京大学医科学研究所で細胞分裂の研究を始める。分子生物学から細胞生物学へと、つまり「好きなほう」へと道を変えたのだ。
「たとえば、細胞が2つに分かれる時に染色体(DNAが凝縮したもの)が2等分されていくのですが、このとき、1時間ぐらいの間にものすごくダイナミックに動くんです。その様子を顕微鏡で見るのが大好きでした。どうしてこんなに美しい動きが実現できているのだろうか、そのメカニズムが知りたい。そう思ってずっと研究をしてきました」
顕微鏡のレンズの先に広がる極微の生命の世界の、いわば美と神秘に惹かれた大杉は、命がスタートする地点、哺乳動物の受精と発生の不思議へとしだいに関心を強めていく。
「細胞分裂の研究はHeLa細胞という有名な培養細胞(ヒトの子宮頸がん組織から分離されて,培養・保存されている細胞株)を使って行っていたのですが、そのうち、これほど長く培養され続けているものを研究して新しい何かがわかるのだろうかと、不安に思い始めました。ちょうどそのころ、ある分子の研究のために作った遺伝子欠損マウス(特定の遺伝子を破壊した変異マウス)を解析していたら、そのマウスでは受精直後の胚に異常が表れたのです。その理由を突き詰めたくて、マウスを使った受精と着床前の発生という、今行っているテーマに研究のポイントを移したのです」
受精して受精卵ができ、分裂を繰り返して胚に、つまり個体になる。その過程はカエルや魚といった卵を研究しやすい脊椎動物を通じてわかっていた。だが、哺乳類は、そのプロセスがメスの体内で起きるので見ることができず、よくわかっていなかったのである。先の遺伝子欠損マウスで起きたことも、この「よくわかっていなかったこと」リストに加えられた一つというわけである。
「この半世紀で哺乳類の受精卵も体外でだいぶ培養できるようになったのですが、するとこんどは脊椎動物の中で哺乳類だけが多くの点で異なっていることが見えてきました。ただし、どんな理由で、どんな分子メカニズムで、そういう違いが生じているのかについては、まだまだわかっていないことが多いのです。哺乳類の受精・発生の過程に、他の脊椎動物とは違う特殊な仕組みがある。その仕組みが知りたい。理解したい。それが私の今の好奇心が向かうところ、クエスチョンを抱くところですね。だから、私なりの研究のルールとして、カエルや魚でやっても同じことがわかる研究はしないと決めているのです」
ワクワクする「推理」という過程
大杉が魅せられたのが顕微鏡で見える世界だったように、細胞生物学は顕微鏡を使った「ライブイメージング」という手法が特徴である。
「細胞生物学は基本的に”細胞はすりつぶさない”。つまり、その細胞の形態を保ったままその細胞が動いて、増えていく様子を、その細部をずっと見る、それがライブイメージングです。でも、それだけでなく、細胞生物学的に見えた違いを分子生物学的にはどう説明できるのかということまでやるのが面白いのですよね」と、大杉は言う。
「つまり、アプローチをどこまでするのか。顕微鏡で見える細胞の範囲か、それとも細胞の中のオルガネラ(細胞小器官)というミトコンドリアや葉緑体などのレベルまでか、あるいはそれらを作りあげている分子まで見ていくのか。私は分子までというタイプなのですが、おそらく多くの研究者もそうだと思います。細胞生物学の研究で分子生物学をまったく取り入れていないというものは、いまはだいぶ少ないと思います」
では、実際にはどういうプロセスで研究を進めていくのだろうか。
「たとえば、阻害剤(酵素の活性を邪魔するような物質)を用いるなどして、注目している分子の働きを抑えると何が起こるかを観察するといったことです。このとき、染色体の様子であったり、どんな分子がどこにどれだけあるかというものの変化を見ながら観察をしたいわけです。そのために、メッセンジャーRNAを人工的に作って卵に顕微注入(とても微小なガラス管を使い、顕微鏡で見ながら行う注射)というものをします。そうすることで染色体や微小管などのいろんなオルガネラを可視化して蛍光顕微鏡で見える状態にできます。それを顕微鏡にセットして、実際に受精させたり、あるいは受精と同じような刺激を与えて発生を進めて、1分おき、5分おきとかに見ていくということをするのです」
これをすべて画像データとしても記録し、実験が終わった後に全画像の解析をする。根を詰めた、時間のかかる作業なのだ。
「細かく観察する実験は1回に一つの卵しか観察できないこともあります。そうすると受精卵ができるまでの観察も3時間ぐらいかかりますから、1日に2回観察を繰り返してやっと卵2個の実験ができることになります。一つのテーマでは20個から30個ほどの卵を見ます。しかも比較対象も観察しながらですから、どのくらいかかるでしょう。数カ月かかることもありますね」
研究には「推理」が大事だともいう。
「推理をする、仮説を立てる。そういうのが私自身はすごく楽しいのです。ワクワクするんです」
ある遺伝子はこういう働きをするだろうということが、マウスではわかっていなくても、カエルや魚ではわかっている。マウスにもあるその類似の遺伝子が、働き方や働く場所がカエルや魚と違っているために、哺乳類でだけ違うことが起きているのではないか。そんな仮説を立て、実験を組み立てる。つまり、過去の生命科学の知見の蓄積から推理を働かせるのだ。
「その仮説を検証するにはこういう実験をしてこういう結果が出ればいい。そういうものを考えついて実行するというところが、私自身は研究していく上で一番楽しいところなのです」
まだ謎でいっぱいの生命
受精・発生の過程が哺乳類と他の脊椎動物とでは違うという話に戻ろう。たとえば、その一つが次のような現象だ。
卵と精子の融合から受精卵ができるまで、多くの動物は30分ほどかかる。ところが、哺乳類ではそれが2〜3時間もかかってしまうという。
「マウスの受精卵の中に脱リン酸酵素をわざと入れると、普通は110分ほどかかるプロセスを40分ほどにまで縮めることができます。この時に何が起こるのかを見たら、精子から来たほうの染色体の機能がおかしくなっていることがわかったのです。受精卵はできるのですが、最初に分裂する(第一卵分割)時に精子由来の染色体がうまく並ばないとか、染色体が二つに分かれずに真ん中に残ってしまうといった異常が出てくるのです」
この実験を繰り返すことで見えてきたのが、おかしい受精卵が増えてくるのは、受精卵ができるまでの時間を80分より短くした場合だということだった。カエルや魚では起こらないことが、なぜマウスでは、つまり哺乳類では起こるのか。なぜ、哺乳類は時間をかけないといけないのか。
「私たちの研究によって、他の動物では、精子がやって来るまで卵の分裂を止めているリン酸化酵素が、哺乳類ではなぜか核を作るのを遅くするために働いていたことがわかりました。つまり、この一部の分子の役割が他の動物と異なっていたため、さまざまな変化が起きて積み重なり、一連の現象が起きていたのです」
判明したのは、時間をかけることによって、精子側の核は受精卵ができてから機能的に働くことができるようになっていたということ。そしてそのための仕組みは卵の側が備えていたということだ。
「どんな現象が起きているのか、時間はどう制御されているのか、そういうことは今ではおおよそわかってきました。その一方で、それでは時間が短くなるといったい精子側で何が間に合わなくなるのかなど、詳しくわかっていないことはまだ多いのです」
私たちは高校の生物で、受精後の卵が細胞分裂を繰り返す卵割について勉強する。だから、こういった発生については、もうとっくの昔にすべては明々白々になっているものと思っている。だが、そうではないと大杉は言う。
「わかっていないことがまだたくさんあるのです。たとえば細胞の有糸分裂(細胞で核が分裂する時に、染色体が二つに分かれて二つの娘細胞を作ること)も、どういう順番で何が起こるのかといった現象は細胞生物学的にわかってはいますが、何がどうやって動かしているんだということは、ようやく少しずつ解明されてきたという段階なのです」
いま大杉が取り組んでいる、そんな“謎”の一つが、ゲノムのセット数に関係することである。
「哺乳類は、2倍体と言って、ゲノムを2セット持っています。このセット数の変化に哺乳類はものすごく敏感です。魚だったら3倍体(3セット)のものもどんどん人工的に作り出されていて、それは体も大きくて食べるところがたくさんあるということで商業的にもいいのですが、一方、哺乳類では3倍体や4倍体では生まれること自体ができないのですね。なぜセット数の変化にこれほど敏感なのか不思議なのです。私はこれに対してある仮説を立てて、いま、検証を始めているところです」
仮説──つまり、大杉がワクワクする推理である。
壮大な謎より、小さい謎
「研究していて一番楽しいのは、仮説を立てて実験してみたら予想外の結果が出たという時ですね」
そう大杉は言うが、それは仮説がドンピシャリ当たったということの楽しさではない。その反対である。
「私ぐらいの人間が思いつく仮説ってたかがしれているのですよね。それは過去の蓄積から予想できる範囲なのですから。そうではなく、どんなに丁寧に実験してもぜんぜん違う、むしろ予想外のところに答えが向かって行った時が面白いのです。それは生命を理解する上での、とても新しいコンセプトを見つけたということですから。まったく思ってもいなかったことが起こっている。それはいったい何だろう。そうやって別の視点を無理やり持たされるというか、未知の違う現象が見えてくる、そんな時が一番楽しいのです」
そんな日は、一晩中、関係がありそうな文献を探しては読みふけるのだそうだ。
「サイエンスでは、必ず過去の研究に何らかのヒントがあるはずなんです。私はなにを摑み始めているのだろうか、それについては今までどれだけのことがわかっているのだろうか、それを証明するためにはどんなことができるのだろうか。新たな仮説と、それを検証する実験を考え出すために、そういうことをいろいろ調べ始めるのです。それをし始めると、もうあっという間に終電の時間になってしまうくらい楽しくて。会議なんかあっても、ぜんぜん出たくない(笑)。そんな気持ちになってしまいます」
そんな自分を、大杉は研究者向きの人間だという。研究が楽しくてしかたがないのだと。
「これが一つわかったらおしまいかなと思ったら、二つも三つも次から次へと不思議なことが出て来る。興味がつきることがないのです。私の研究スタイルは本当に“興味本位”で、いちおう哺乳類ならではの仕組みということではあっても、あちこちあちこち行きがちなのです。知りたいことは次から次へと出てくるし、本当に楽しいのです」
大杉は「自分はどうして生まれることができたんだろう」という、私たち哺乳類の誕生をめぐる大きな謎に引かれると、こんなふうに語る。
「哺乳類の研究をしていると、赤ちゃんが生まれるというのは奇跡的なことなんだなと思います。だから私自身は人間として、どういう奇蹟をくぐり抜けて生まれてきたんだろうかと考えてしまうのです。マウスの受精卵と人間の受精卵は大きさもそれほど変わりません。人間のほうがちょっとだけ大きいかなというくらい。そんなマウスの受精卵を見て、私という人間のスタートもこれだったんだと思うと、よくぞここまで大きくなったものだと思います。そんな自分自身を含めて、哺乳類の受精卵がメスの体内で動けるぐらいの大きさまで育つという仕組みは本当にすごいなと思います。この奇蹟のようなプロセスをどうやって経て赤ちゃんは生まれてくるんだろう。それが、私の追い求める問いなのですね」
若者たちへのメッセージをお願いしたら、こんな答えが返ってきた。
「研究は大変なこともありますが、たいていは楽しさのほうが上回りますから、まず飛び込んでみてください。また、とくに女性の皆さんに伝えたいのは、女性研究者である私たちが経験してきたたいへんさを決して下の世代には渡さない、そのためには何でもやろうという人が多くて、実際にどんどん変わっているということです。私たちは女性の仲間を欲しているし、ぜひこの楽しさを味わってほしいってすごく思っている、この気持ちをどう言葉で表現したらいいのかわからないのですが……。本当に言葉が出てこないのですけど……」
と、大杉は困ったようにしてほほ笑む。大丈夫ですよ、伝わってます、きっと。
※2025年取材時
取材・文/太田 穣
写真/貝塚 純一