全脳イメージングで、入出力の「あいだ」を見る
生物は、情報を受け取り(入力)、その情報を適切に処理して行動(出力)を起こす。このとき、入力と出力を一対一に対応させられるわけではない。たとえば、食べ物の匂いの情報を受け取ったとして、空腹であれば匂いの元へ向かうだろうが、満腹であれば反応しないかもしれない。このようなとき、いったいどのように情報が処理されているのか。生物にとって情報とは何なのか。これを「全脳イメージング」によって明らかにしたい、というのが豊島有(生物科学専攻准教授)の研究テーマだ。
全脳イメージングとは具体的にどのようなことか、豊島は次のように説明する。
「脳は神経細胞同士がつながった神経回路を巧みに使って情報を処理しています。ただし人間などの脳は細胞数が数百億あり、とても複雑なので、そのまま調べるのは難しいのです。そこで私は線虫というモデル生物をターゲットに研究をしています。線虫には神経細胞が302個あり、そのすべてに名前がついています。神経細胞同士のつながりもわかっています。そのため、環境情報をどの神経細胞がどのように処理していき、最終的な行動につながっていくかをすべて調べることができるのです。」
つまり、入力と出力の「あいだ」で何が起きているかを全部見てしまおうというアプローチである。豊島は、このアプローチの意義を説明するのに、しばしばAMラジオを例にあげる。
「電波という入力が、音声という出力に変換されるのがAMラジオです。実際は、アンテナが電波を受信して電流に変換します。次に、コイルとコンデンサを含むチューニング回路が電流から特定の周波数の信号を取り出し、ダイオードが信号を整えます。そして、振幅の変化である包絡線をスピーカーが音声信号に変換するわけです。もしあなたがこうした知識を持っていなかったとして、AMラジオを渡されて、動作原理を調べてくださいといわれたら、どのようにしますか?まず部品を一つずつ外してみてラジオが動くかどうか調べたり、個々の部品の特徴を調べるかもしれません。しかし一通り調べ終わったら、個々の部品にどのような信号が流れているのか調べたくなりませんか。ひとつの部品の入力と出力の『あいだ』でどのように信号が変化するか、それが最終的な出力にどうつながるかがわかればよさそうですね。神経回路の研究でも全く同じことがいえます。このように、回路の構成要素をきちんと調べて、そのダイナミクスを追うという取り組みを、神経回路でやっていこうというのが全脳イメージングなのです。」
「あいだ」から見えてきた意外なコト
ラジオの「あいだ」ならまだしも、生物の「あいだ」の全部を見ようというのは一筋縄で行くものではない。目の前の線虫の神経細胞の一つ一つが何という名前の細胞であるかを判別する技術を確立したうえで、同じ細胞を撮影データの中できちんと追いかける技術も求められた。また、神経細胞の集まる頭部を顕微鏡の視野内に捉えつつ、線虫の運動そのものは妨げないよう、線虫をうまく保持する技術も必要だった。これらに挑む豊島の強みは、目的達成に必要な情報や技術を素早くキャッチし、多方面からのアプローチがとれるところにある。顕微鏡の改良、画像処理手法の開発、線虫を保持する微小流路の設計、遺伝子工学による線虫株の作出など、さまざまな引き出しを持っているのだ。
「たとえば、神経細胞を観察するとき、細胞の核同士が密接していて、どの細胞が発火したのか判断が難しいという問題があります。画像処理の方法を工夫すると同時に、線虫の遺伝子を操作して、細胞ごとに異なる蛍光色を与えることで、細胞が分離しやすくなりました。」
さまざまな工夫の結果、動いている線虫を追いかけながら神経活動を時系列で捉える「全脳イメージング」のための実験系が完成した。そこで見えてきた入力と出力の「あいだ」は、当初予想していたものとはまったく異なるものだった。
「名前がつけられた細胞ごとに発火の様子を時系列で観察できるようになったのですが、刺激に対してきれいに反応しているかというと、そんなことはなかったのです。最初は、いったいどこに一定のパターンがあるのか全然わかりませんでした。でも、どこかにパターンがあるはずだと細かく観察し、数理モデル化や独立成分分析といった統計の技術を使うことで、多くの神経細胞は刺激とはほとんど関係なく自発的に活動していることや、限られた神経細胞だけが刺激に対してきれいに反応していることが見出されました。線虫の神経ネットワークがもともと持っている活動パターンがあり、そこを考えないと入力と出力の関係は理解できない、予測できないということがわかってきたのです。」
コトの生物学としての生物情報学
全脳イメージングによって、多数の神経細胞が自発的に活動している様子が可視化されたわけだが、ここで重要なのは神経活動そのものではなく、それによって運ばれる情報だと豊島は言う。
「生物情報学と言うと、ゲノムの配列情報を扱うバイオインフォマティクスがまずイメージされてしまいます。でもそれは、生物情報学の一分野でしかありません。生物の活動データや画像データから情報をとってくるのも生物情報学と呼んでいいはずです。それから、さきほどのラジオの例では、音声の情報は電波の振幅として符号化されていましたが、神経回路ではどうなっているのか。生物にとっての情報、例えば周囲の環境の情報が、神経活動にどのように符号化されているのか、また神経回路がその情報をどのように抽出して適切な行動を引き起こすのかという仕組みに迫りたいのです。生物にとっての情報とはなにかを明らかにすることも生物情報学の一分野であるべきでしょう。生物学では遺伝子や分子、細胞といった”モノ”に着目した研究が盛んですが、それらがどのようなやり方で情報を保持しているかとか、生物がそこからどのように情報を取り出すかという”コト”に注目する研究に私は強く惹かれました。”コトの生物学”と言ってもいいかもしれません。」
生命現象に一気通貫して迫りたい
生物と情報、顕微鏡と画像解析、遺伝子工学と微小流路設計と、さまざまな手法を器用に組み合わせてコトの生物学に挑む豊島。どのようにしてこの研究テーマにたどり着いたのだろうか。
一つは、分解して、もう一度組み立てることで仕組みを理解する、つまり、「あいだ」を知りたがるところがあるのかもしれないと振り返る。印象的なエピソードとして、中学校の生物の授業で、大学で教わるくらいの解像度で光合成の仕組みを教わったことを挙げる。水と二酸化炭素と光のエネルギーから、糖と酸素が得られるという入口と出口の説明にとどまらず、その「あいだ」にある回路にまで分解して理解していくことにおもしろさを感じたのだ。
もう一つは、意外にも、得意なことや特別やりたいことがなかったからだと言う。
「理科一類に入学した当初、自分がなにをやりたいのかわかりませんでした。そんなとき、たまたま友人と、当時医科学研究所の副所長をされていた宮野悟先生の話を聞きに行く機会がありました。そこで、『これからはシステム生物学の時代だよ』と言われました。さらに、『生命科学はこれから、いろいろな分野の知識を総動員していく総力戦になる』と言われ、システム生物学に対する確固たるイメージがあったわけではないのですが、自分の持っている知識を全部活かして生物を研究することに強い興味を持つようになりました。」
「その後、生物情報科学科の前身の学部教育特別プログラムにシステム生物学を学べる場があることを知り、プログラムの運営主体である生物化学科に底点ギリギリで滑り込みました。修士博士と細胞内のシグナル伝達のシステム生物学を研究していくなかで、シグナル伝達物質の時間パターンや量の変動を見ていかないと説明が難しい現象があることを実感します。こうして、生命現象の入口から出口までを、一気通貫して繋げて見るような研究の重要さとおもしろさに行き着いたのです。」
バーチャル線虫を目指して
豊島の研究の先には何があるのだろうか。
「神経系の活動をきちんと取り込み、高精度のバーチャル線虫を作るというのが目標の一つです。どんな情報を受け取り、どのような情報処理が行われ行動が引き起こされるのかが再現・予測できる定量的な数理モデルです。原理が説明できる単純なモデルももちろん重要ですが、天下り的になりがちで、モデルと実験結果が一致しない部分を無視してしまうこともあります。一方、機械学習や深層学習などの手法を活用することで、実験結果をよく再現できるモデルを作ることができます。こうした詳細で複雑なモデルは予測能力も高く、まだ行ったことのない実験の結果を予測できたりします。こうした高精度のバーチャル線虫を作り、不完全な部分を検証して修正していくことが、神経回路における情報処理のしくみを正しく理解するために重要だと考えています。」
ここでふと、詳細で複雑なモデルが構築できたときに、果たして生命現象を理解したと言えるのかという疑問が浮かんだ。言い換えるなら、複雑なモデルを見るのは、線虫そのものを見るのと変わらないのではないか、ということだ。これに対し豊島は、モデルがあるからこそできることもあると語る。
「特定の神経細胞を刺激して下流への影響を調べる実験がありますが、刺激の有無による差を調べるためには、刺激時の状態を揃えておく必要があります。しかし全脳の神経活動の状態は確率的に切り替わっているので、状態を揃えることは、モデルでなければ難しいと思います。他にも、刺激する細胞の組み合わせを探索するなど、モデルを活用することで研究の幅が広がるでしょう。こうしたハイブリッドな研究の進め方が他の分野にも波及すると期待しています。」
※2024年取材時
取材・文/堀部 直人
写真/貝塚 純一