物理学の究極の目標は、森羅万象を普遍的な法則で記述すること。
それは、対象が生命とて例外ではない。
20世紀後半以来、生物学は目覚ましい発展を遂げている。その原動力は、分子生物学と生物物理学の新技術だ。前者の代表例がゲノム解析であり、後者の代表例がさまざまな細胞機能の測定技術だ。
数々の複雑な生命現象は、分子レベルで明らかにされつつある。だが人類は、「生命とは何か」という本質的な問いへの明確な答えをまだ手にしてはいない。それは、個々の研究成果がバラバラに存在しているからだ。樋口教授は、多様性に満ち溢れた生命現象の背後にある普遍性を探っている。手がかりは物理学だ。
「生物物理学は、生物という複雑な系のなかに、根源的な原理原則を見つけ出す学問です。物理や化学の進歩によって、生命科学分野においても定量的なデータが膨大に蓄積されてきています。それらの知見を、物理や数学を駆使して一つの理論に統合して理解する。それは、多くのデータが蓄積された今だからこそ、可能になりつつあるテーマです」
樋口教授の研究対象は、細胞内の動きを担うモーター分子の普遍メカニズムだ。筋肉細胞や免疫細胞、がん細胞はよく動く。細胞分裂や細胞内の小胞輸送もモーター分子が動きをつくり出している。
分子は細胞内で、私たちが日常経験するのとは異なる運動メカニズムに支配されている。
「マクロの世界では、物体は動力が失われても慣性の法則でしばらく動き続けます。対してナノスケールのモーター分子は動力によって素早く動き、動力がなくなるとすぐに止まります。水の粘性が大きな抵抗になるからです。この動と静を繰り返し、モーター分子は前進するのですが、この現象をさまざまな種類のモーター分子で詳しく調べたところ、動き方に普遍的原理が見つかりました」
樋口研では、一つの分子の動きを可視化し機能を測る「1分子技術」を駆使している。分子が集まると動きは複雑になるが、1分子だけなら動きは単純明快だ。
「“1”は物理学が好む概念です。1個の素粒子や電子の性質を調べるのがそのよい例でしょう。その発想を生命現象に応用したのが“1分子”です」
細胞内の分子の普遍的な運動メカニズムが明らかになれば、生命の本質に迫り、あるいは病気の治療への道が開けてくることが期待される。
樋口教授は筋肉の動きと構造に魅せられ、モーター分子の研究に長年取り組んできたが、所属する学部は大きく変わってきた。物理学科で物理学と生物物理の基礎を学び、医学部で研究職を得て、1分子の研究成果を生体材料や医療に活かすべく工学部や医学部にも籍を置いた。
「学問はボーダーレスです。重要なのは何をするか。学部や学科ではない。それでもはっきり言いたいのは、『学問をするならまず理学部で学ぶべき』ということ。学部の枠を超えて研究を続けられたのは、理学で自然科学の原理を学んだから。原理を正しく理解するといろんな現象が理解でき、応用の土台にもなります」
樋口教授は、確信に満ちた口調で微笑んだ。
※2019年理学部パンフレット(2018年取材時)
文/萱原正嗣、写真/貝塚純一