デパートでエレベーターを待っていると、何基もあるエレベーターが全部自分のいる階から離れていく。近づいてくるときは複数があまり間をおかずにやってくる。これは偶然のことでただ運が悪いだけなのだろうか。それとも、その背後にはなにか必然の物理法則が隠れているのだろうか。
東京大学先端科学技術研究センター西成研究室の谷田桜子助教は、たくさんのものが集まって織りなす動き、“集合体の運動”に惹かれ、そのメカニズムを解明し、私たちの生活に役立てていくことにチャレンジしている。
素粒子に憧れ理科二類を経て物理学科へ
谷田さんが高校生のとき、南部陽一郎・小林誠・益川敏英の3氏がノーベル物理学賞を受賞した。
「素粒子研究での受賞の報に、そんな世界があるんだっていうのを知って、なんかすごくかっこいいなと感じ、物理学科に行くことを志しました」
物理学科は修士のときに専門を選ぶことになるのだが、谷田さんはもちろん素粒子をやると決めていた。しかし、そんな谷田さんが入学したのは、農学部など生物化学系に進学する人の多い理科二類だった。
「実は、理科一類二類の違いをきちんと理解していませんでした。入学してから物理学科に行く類ではないことを知ったんです。科類を間違えてしまったけど、物理学科にまったく進学できないわけじゃない。さぼらずにちゃんと勉強すれば行けるらしいとわかって、しっかり勉強して物理学科に進学できました」
と、その選択理由を振り返る。しかし、谷田さんのこのときの間違いは、のちに決して間違いなんかではなかったことが明らかになる。
突き詰めていくけれどとことん突き詰めるタイプではない
憧れの素粒子を研究するべく、大学院修士課程の願書を提出する1週間前、それじゃないんじゃないかという思いが谷田さんの頭をよぎった。
「素粒子実験の大きな機械はかっこいいけど、100人や1000人という大集団の中で活躍するような研究のあり方が自分に向いているのだろうか?一人でじっくり考えたり、数人でできる研究のほうが自分にはあっているかもしれない。よくよく考えてみたら、生物のことがすごく好きだと気づきました。学部で習った統計物理学でミクロなメカニズムからマクロな現象を説明するのに感動しましたし、博士進学後の一時期進化生物学にもはまっていたんです」
こうしたさまざまな思いから、生き物っぽいもので、スケールが小さくて、なにか実験ができるようなことをやりたかったのではないかと気づき、願書提出まで1週間というきわどいタイミングで生物物理学の研究室へと志望を変更した。この決断に友人たちはとても驚いたという。
「私はいろいろなことに興味があって、突き詰めていくこだわりはある。だけど、とことんまで突き詰めるタイプではなかった。いろいろな知識が使えるし、いろいろな知識があったほうがいいよねという雰囲気のある分野だったので、そこがちょうどよかったんです」
所属した生物物理学の研究室では、輸送を担うたんぱく質と棒状のたんぱく質を用いて、ミクロスケールの棒が平面上を動き回ってぶつかる系をつくり、たくさんの棒を使用したときにその棒がどのような模様を生じるのかという、ミクロのメカニズムからマクロの現象を説明する研究を行った。棒を生物であると見立てるなら、群れのダイナミクスを説明する実験であるとも言える。
「私は何かたくさんものが集まっている状態に昔から興味があったんです。芸術家の草間彌生さんの丸がたくさんあるアートなどが大好きで、たくさんのものが集まったらなんだかきれいだなと思っていました」
興味の大本が集合体へのフェティシズムにあることを明かしてくれた谷田さんは、集合体を扱いつつ人の役に立つようなことをやってみたいと考え、大学院博士課程修了後は、先端科学技術研究センターで人の群れを主な研究対象とするようになった。
「物理学をつかってメカニズムを解き明かす方法を学び、説明する技術は持っている。それを人の群れに適用することで何かしら役に立つことができるのではないかと考えました。たとえば、駅や電車、大規模イベントのように混雑して危険なところを安全にする。飛行機の搭乗を効率化して機の運行をスムーズにする。コロナ禍のいまであれば、ソーシャルディスタンスをどのようにして保つかなど、思いを巡らせていました」
縁を紡いだのは執着心
谷田さんを人の群れの研究へと導いたのは、冒頭でも紹介したエレベーターの同期現象だった。時計の針を逆に回し、転機について少し詳しく紹介しよう。
「博士課程1年目のある日、池袋のデパートに行きエレベーターを待っているときに、同期現象のようなことが起こっていることに気づいたのがきっかけでした。エレベーターを待っていると、どういうわけか複数基が一緒にやってきて、どこかで聞いた同期現象として説明できるのではないかと思い、詳しそうな人に聞いてみたり、論文を調べてみたりしました。その結果、どうやら説明できそうだということはわかったのだけど、なぜ同期現象とみなせるのか、納得のいかないところもありました」
谷田さんは、博士課程の研究テーマの実験をしっかりとこなしつつ、夏休みの自由研究のような感覚で調べ始め、デパートのエレベーターの前に立って1時間半にわたり記録をつけるなど、サブテーマとは思えないほどにまで没頭した。
「なにかちょっとこだわりがあったみたいで、その執着心からどうしても自分が納得するまで調べたくなって、人流に詳しい先生の話も聞きたくなったんです」
そうして見つけ出したのが現在所属する西成研究室だった。博士課程在籍中に西成先生にコンタクトをとり、こんなことをやっているんですけどどう思いますかと相談したことが縁となり、学位取得後の研究へとつながっていった。
深い軸と広い軸をもてば「なんとかなる」
「一つずつ突き詰めていく深い軸と、いろいろなことを浅く知っていくという広い軸とがあるとして、その二軸を両方持っていること。すなわちそれは、いろいろ知っているのに加え、何か一つ得意なものがあるということ。得意なものという深い軸から広い軸の方向に広げていくのが今後求められていくだろう–––」
谷田さんが深く共感する西成先生の方針だ。素粒子に憧れるも“間違って”理科二類に入学し、理学部物理学科に進学するも大学院入試の1週間前に素粒子から生物物理へと宗旨変え、そこからさらに研究対象を人へと転じる。あれこれとバラバラなことをやってきたようにも見えるが、結果的にこの方針に沿って歩んでいたのである。谷田さんにとっては、物理をつかってメカニズムを説明することが深い軸で、人間を含む生物についての教養や博物学的知識が広い軸である。
「外から見るとなにか違うことをいきなり始めた、みんなが思っていたのとは違うことを始めたと見えるかもしれないですが、わたしの中では一貫していたんです」
と言うとおり、外の目から見ると寄り道のようにみえることも、回り道と思えることも、振り返ってみれば、谷田さんの歩んだ道は一本道だったのである。
しかし、その一本道を自信満々で歩いてきたというわけではない。
「興味があることはとりあえずやってみる。他の人のことは気にせず、自分が興味を持ったら自分で調べるといいと、修士課程の頃の自分の背中を押すような声をかけたいです。考えはじめると不安要素が次々と出てきてしまうけど、自分に主体を置いて好きなものと向き合い、不安があったとしてもとりあえず置いといて、チャレンジしてみるという姿勢がよかったのだと思います」
と振り返る。そして谷田さんは、「譲れない軸がありながらも視野を広げていくと、おもしろいものが見つけられる。そういう視点があれば、なんとかなる」と力強く結んだ。
※2022年取材時
文/堀部 直人
写真/貝塚純一