モースの大森貝塚発掘原図

近藤 修(生物科学専攻 准教授)

図1

大森貝塚人脛骨の横断面形(モース,1879より)

エドワード・モース(Edward Morse, 1838-1925) が初めて来日したのは,明治10年(1877年)である。もともと貝類の専門家として,アメリカ東海岸の貝塚に関心を抱き,考古学的な発掘の知識をもっていたモースは,来日早々,横浜から東京に向かう汽車の窓から大森の貝塚をみつけ,これを調査した。掘り出された土器,石器,骨角器,獣骨,人骨などは本学博物館に保存されている。モースの発掘で特筆すべきは,これら出土品のすべてを科学的な古代研究の資料として扱ったことである。2年後の1879年には発掘の成果を英文 “Shell Mounds of Omori” 和文「大森介墟古物編」と題する報告書にまとめて本学より出版した。これらは東京大学による学術研究報告刊行の嚆矢として,その後の各学部の紀要刊行のモデルとなった。表紙および裏表紙写真の原図は出版物と同時に人類学教室(現在の生物科学専攻)図書に保管されてきたものである。

この発掘調査が日本の人類学・考古学に大きく貢献したことは間違いない。本邦初の貝塚調査であるという学史的な意味でも重要であるが,それよりも,当時の日本人がほとんど考えてもみなかったような有史以前の石器時代人の生活の痕跡が,東京の郊外に残されていたという事実を内外に明らかにしたという点で,大きな意義をもっていた。

モースが大森貝塚で発見した人骨はすべて断片的な散乱人骨であったが,彼はそのなかの一片の脛骨の破片の形に注目した。それは横断面の形が現代人のように三角形ではなく,前後方向に長く幅がやや狭いという特徴をもっていた(図)。これは「扁平脛骨」とよばれる特徴で,当時,北米の貝塚人骨やヨーロッパの先史時代の人骨によく見られる特徴として知られていた。いまでは縄文人の骨格の特徴のひとつとして定着している。彼はまた,貝塚の中での人骨の出土状態がまったく不規則であり,シカやイノシシの骨と一緒に,しかも割れた状態で見つかること,中には傷のついたものもあることに注意し,アメリカインディアンの場合などを例証として,食人の風習があったのではないかと考えた。ただ,こういう風習が日本人についてもアイヌについても知られていなかったため,大森貝塚を残した種族は,日本人でもアイヌでもない,未知の種族であった可能性がある,と述べている。これは,今日までつながる,「日本人の起源」に関する議論へと展開していった。

こうした人類学・考古学的貢献と同時に,東大創設期の初代動物学教授としての本学との関わり合いも忘れてはならない。モースの来日の目的は日本の近海に多くすむ腕足類を研究するためであったが,縁あって文部省の要請を受け,二年間,東京大学の教授として動物学科の創設にあたることとなった。この間に彼は精力的に教育・研究用の設備をととのえ,学生への講義にも情熱を注いだ。自身の研究のため,また学生への教育のために江ノ島に臨海実験所をつくり,標本採集に注力した。これが後に三崎臨海実験所が開設される伏線となった。さらに一般へ向けての講演も活発に行い,ダーウィンの進化論をはじめて紹介している。当時の新聞広告記事には,大森貝塚の発掘と同時に生物進化の講演の記事も見られる。以下,当時の「郵便報知新聞」掲載の広告を再録する。

「本月十五日午後八時より理学部動物学生理学教授米国理学博士モース氏武州大森に於て日本古生物発見の事を演説す。依って右聴聞望の者は午後七時五十分までに来校すべし。
明治十年十月 東京大学法理文三学部」

「二十日午後八時より動物学教授モース氏講義室に於て英語を以て生物変進論中人類の原始を演説す。該講望の者は来校すべし。
明治十年十月 東京大学法理文三学部」

参考文献 共同研究「モースと日本」守屋毅 編。1988 小学館