ヒトを分析する
平田 岳史(地殻化学実験施設 教授)

あの方は原稿の締切をしっかり守ってくれるだろう,とか,あの方は信念を貫くだろうなど,ヒトの分析は楽しいものだ。しかし今回取り上げるのは認知行動学的なヒトの分析ではなく,化学分析である。ヒトの化学分析もとても面白い。
私は分析化学が専門で,さまざまな元素の精密同位体分析やイメージング分析に取り組み,これまでに2万点以上の岩石・鉱物の年代分析を行って,世界の大陸地殻の成長速度の推定や,ジャワ原人の出現時期の特定などに活用してきた。最近は,年代分析のために開発した分析法を生命科学研究に応用している。応用研究の中で,私にとって勉強になったのが血液中の鉄の同位体分析である。
鉄は必須元素であるとともに毒性元素でもある。ヒトは鉄がなければ生きていけないが,その一方で必要量以上の鉄は細胞にとって毒である。食べ物から鉄を全て吸収すると,必要以上の鉄を摂取することになるため,私達は食物中の1割程度の鉄しか吸収しない。この「一部を吸収する」ことで同位体組成変化がうまれる(同位体分別という)。
食物から鉄を血液中に吸収するさいには,食物の中で結合されている鉄を切り離さなければならない。一般に,結合の強さは重い同位体(56Feや57Fe)の方が軽い同位体(54Fe)よりも強い。したがって食物からは結合の切れやすい軽い鉄同位体を選択的に取り込む。この結果,血液は食べ物に比べ56Fe/54Fe同位体比が低くなる。さらに面白いのは,この鉄同位体の吸収に性差があることだ(図)。同位体から女性は男性のほぼ2倍の吸収効率をもっていることが判かる。このように同位体比から元素の代謝を調べることができる。
鉄,カルシウム,銅,亜鉛などの重要な元素は,血液や細胞内で大きな濃度変化がおこらないよう常に調整されている(恒常性機能)。この機能のために,血液中の濃度から元素の摂取状況や栄養状態を推定することは困難である。一方で元素の同位体比は個人の金属代謝の指標となる。鉄同位体は,診断が困難なヘモクロマトーシス(鉄を吸収しすぎる疾患)の検出に応用でき,また最近では,銅の同位体を用いてアルツハイマーの発症メカニズムの解明にも応用されている。
![]() ヒト赤血球中の鉄同位体比 |
この研究は,私に2つのことを教えてくれた。1つは,思いついたら実験してみるという姿勢の大切さである。私達が生体試料の鉄同位体分析に取り組んだ動機は「貧血の方とそうではない方では鉄同位体比が異なるのではないか」という思いつきであった。同僚の先生からは「貧血は自覚症状があるから,同位体分析による診断には意味がない」と言われた。しかしいざ実験してみると,鉄同位体は個人差があり,性差があり,新しい代謝マーカーとしての活用が広がった。自分が取り組もうと考えたテーマは他人が何と言おうと,納得するまで取り組むべきであるということ。それからもう一つ。これは私の反省にもなるのだが, 研究するなら徹底して取り組むべきであるという点。私の場合,わずか9試料(男性6試料,女性3試料)のデータで性差の可能性を議論した。一方でスイスの研究グループは, 男女それぞれ30試料を集めるとともに,ヘモクロマトーシスの検体試料も30試料を用意し(日本では1,000人に1人程度しかおらず,30検体を集めるのは至難の業である), 性差および代謝変化を議論した。これは明らかに私の準備不足であり完敗である。やはり中途半端はダメである。理学部では学問の自由が守られている。しかし私達はその自由と同時に,徹底的に取り組む義務をも負っているのだ。
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理学部ニュース2020年11月号掲載