自然に畏敬の念を抱くとき
竹内 一将(物理学専攻 准教授)
研究者が,自分の研究対象に畏敬の念を抱くのは,どんなときだろう。もちろんそれは人それぞれだろう。しかし,統計物理学や数理物理学の実験に携わってきた私にとっては,高度な数学や非自明な理論が目の前の実験系に姿を現す,その瞬間は研究の大きな喜びであり,自然にある種の恐ろしさを感じる瞬間でもある。そんな経験の一例となった研究を紹介しよう。
燃え広がる紙切れ,増殖するがん細胞の塊など,一般に何らかの領域が拡がっていくとき,その境界である「界面」では揺らぎが発達しやすく,境界線は凸凹になっていく。理論的には,この凸凹には普遍的な物理法則が期待でき,分類上もっとも基本的かつ重要なケースはKardar-Parisi-Zhangクラス,略してKPZクラスとよばれている。1次元界面のKPZクラスは,非線形・非平衡の多体問題ながら,厳密に解けることが判明し,数理物理学と数学を中心に大きな進展が興っている。その理論は,私にはきわめてアクロバティックに見える。たとえば初期の厳密解研究では,ある界面モデルを考えると,その界面ゆらぎは高分子の問題に言い換えられ,それは数学の順列で表現できて,組合せ論の手法を駆使して,最終的に,ランダムな行列の固有値法則が出現する。美しい。だけど,本当かな?というのが正直な感想だった。これはモデルの特殊性なのか?はたまた普遍的な物理法則なのか?それを知りたかったのが,実験を始めたきっかけだった。
左上:対流セル(実験に使ったのと同等のもの)。 |
使ったのは,液晶の対流現象だ。実験の心臓部分である対流容器は,ガラス板2枚を貼り合わせつくっていて,手づくり感満載である(図・左上)。ガラスには透明電極がついていて,液晶に電圧をかけ乱流を起こすと,黒い乱流領域が拡がっていく(図・右上)。顕微鏡画像を解析して界面の凸凹を測り,適切な変数変換をしてヒストグラムをつくる。すると…ランダム行列の分布法則である「GUE Tracy-Widom分布」とぴたりと一致する結果が現れた(図・中央)。この分布は初等関数で書ける単純な形ではないのだが,目の前の液晶乱流は,そんなランダム行列の数学を「知っている」のだ。
次に試したのは,平らな界面の実験だった。厳密解の結果では,平らな界面は,丸い界面とは別のランダム行列の統計法則を示す。でも,平らとは曲率がぴったりゼロの特殊な状態だから,それは実験で出る代物ではないと予想した。理論家をぎゃふんと言わせる目論見だった。結果は…私がぎゃふんと言わされた。私の実験系は,私よりも,数学の方に従順なようだ。
そこですっかり改宗して,実験から数学を教えてもらうことにした。KPZ厳密解は大きく進展 したが,それでも計算されたのは一部の性質に過ぎない。そこで,未知の性質を実験で測定し,人類より数学を知っているらしい私の実験系に答えを教えてもらう。この作戦は功を奏し,新しい性質が実験で見つかって,対応する定理を数学者がつくってくれた。そんなことをやってのける自然現象はつくづく不思議と思うが,物理学と数学のタッグはもう何百年も人類を賢くし続けてくれたことを思えば,単に私が自然を見くびっていただけなのだろう。そんな現場に立ち会えるのは,物理と数学の境界で研究をする大きな魅力ではないだろうか。
理学部ニュース2019年11月号掲載