はじまりの場所,化学科学生実験室

藁谷 英樹(化学専攻 技術専門職員)

 

理学部化学科には,学生実験室とよばれる部屋がある。そこは学部3年生が1年を通して実験作法を学ぶ場所である。ここでは毎週月曜から木曜までの午後に,分析化学,無機化学,有機化学,物理化学,放射化学,生物化学などの多様な分野の実験が行われる。

私は学生実験で,化学科の教育をサポートしている。学生実験とは,科学者として本格的に研究を始める前の準備運動のようなものと考えている。体育の授業のときに最初の手首を回したり,アキレス腱を延ばす運動に相当するだろう。これを怠ると後々大惨事に陥りかねない。ここで入念に準備を整えておけば,事故予防にもなるし,今後の予習にもなる。そう遠くない将来「あっ,これ学生実験でやったところだ!」と思う瞬間が必ず訪れるはずである。



排気装置の付いた実験台とレトロな石の流し台が共存する学生実験室

実験室がある化学本館は,記録によると化学教室発祥100周年を迎える1961年に着工し,翌1962年に完成している。今から57年前である。化学本館2階の学生実験室の中央には,そのときに設置されたと思われるレトロな雰囲気の石の流し台がある。化学科出身の教授のお話によると,40年ほど前の学生実験は学部3年生の初めから4年生の前半にかけて,1年半近く行っていたとのことである。現在は短縮されてはいるものの,実習カリキュラムは世界と競合できる能力を育成するために,年々意欲的に更新され続けていると感じている。2015年から外国人留学生と一緒になって,英語と日本語の2か国語対応で実験を行っているのも,大きな変化のひとつといえるだろう。また学生が使用するすべての実験台には,もし有害な気体が発生しても,ただちに排出できる局所排気装置とよばれる卓上フードが備え付けられている。安全を第一に考えて,現代的な実験環境を整えているのである。一部には今も化学教室の長い歴史を感じる趣を残しつつも,時代と共に学生実験は日々進化を続けている。私は他大学の出身なので,この環境はただただ羨ましいとしか言いようがない。

研究者を志して化学科に進学し,学生実験を経験した学生たちは,それぞれが志望する研究室で切磋琢磨し,やがて能力を競い合う世界へと旅立って行く。これまでもそうであったし,これからもそれは変わらない。学生実験室は, 化学者人生の基盤を形成する場所となり,将来のプロフェッショナルへの原点となる。この場所からそれぞれの未来が始まるのである。誰もがそうであるように,初めての経験は印象に残りやすい。それ故ここでの実習は,重要と考える。ここで過ごす濃密な1年は,良かったこともあまり面白くなかったこともあるだろう。化学科学生実験室での経験は,深い意識の奥に仕舞い込まれた確かな記憶として,いつまでも残るのではないかと思う。

かつて学生実験を行った学生と,しばしの歳月が経たあとで再会することがある。意欲溢れる新しい世代の研究者 となり,自信に満ちた表情で近況を語ってくれる姿を見るのは,わが子の成長のように嬉しい。

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理学部ニュース2019年5月号掲載



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