地球・惑星深部における水素の物質科学

鍵 裕之(地殻化学実験施設 教授)

水素は原子番号「1」でもっとも軽く,太陽系での存在度が「1」番高く,あるときは 陽イオンとして,またあるときは陰イオンとして ふるまう変幻自在な元素である。氷には水分子間に働く水素結合ネットワークの多様性から18種類もの多形が存在する。水素は液体ロケット燃料, ニッケル水素電池,燃料電池にも利用され,最近では硫化水素が-70℃(という高温条件)で超伝導状態になることも報告された。いっぽう,地球科学の分野では,水素が地震波伝搬速度などの地球内部物性に大きな影響を及ぼすため,地球内部の鉱物中に水素がどれだけの量,どのような構造で取り込まれているのかは重要な問題となっている。まさに水素は「1+1から∞の理学」にもっともふさわしい元素である。

私は筑波大学物質工学系に勤務していた1996年から,学振海外特別研究員としてニューヨーク州立大学(State University of New York)に滞在した。採択された研究課題は「マントルの水の総量を知る」と言う大それたものであった(ちなみにいまだに答えは得られていない)。マルチアンビル高圧発生装置を用いて,マントルに存在しうる含水鉱物を合成し,高圧下で中性子回折を測定して水素位置を決定する実験に明け暮れた(水素には電子が1個しかないため,結晶構造解析に用いるX線回折は無力で,中性子回折を用いないと物質中の水素位置は決定できない)。今のところ,人生最良の日々がアメリカで過ごした2年間であった(今後さらに素晴らしい人生が控えていると楽しみにしている)。1998年に東大理学部に教員として戻ってからも,年に2回はイギリスのラザフォード・アップルトン研究所(Rutherford Appleton Laboratory)に出かけて中性子回折実験を行っていた。当時,高圧下での中性子回折測定はイギリス以外では行えなかった。2000年代に入り茨城県東海村のJ-PARC にパルス中性子源が建設され,ビームラインの公募が始まった。国内の高圧研究者だけでなく,アメリカ時代にお世話になった英米仏の研究者とも連携し,高圧ビームラインの建設計画が始まった。ビームラインを獲得するための申請書,ヒアリング,建設資金の申請(必要な研究費は10億円!),そして多難なビー ムライン建設などなど,この紙面では収まらない紆余曲折を経て,足かけ10年で超高圧中性子ビームライン「PLANET」が完成し,現在は世界の研究者に供用されている(図)。

 

         
J-PARCに建設された超高圧中性子回折ビームライン PLANET

 

われわれはPLANETを利用して地球惑星深部条件での水素の物質科学的研究を進めている。たとえば地球の核を構成する鉄の結晶構造中にどのように水素原子が取り込まれるか,という問題は高温高圧下での中性子回折実験を行わないと答えが出ない。氷惑星の内部にはわれわれが知らない結晶構造の氷が存在する可能性もあるし,そもそも自然界には純粋な水は存在せず,種々のイオンが共存するはずである。高圧条件下で氷の結晶構造にどのように塩が取り込まれるか,あるいはど のような塩水和物が存在するか,解決すべき課題は山積みである。

私は化学と地球惑星科学の境界領域(かっこよく言えばニッチな領域?)で生きている。これからもわれわれの研究分野に多様なバックグラウンドをもつ若者が加わってくれることを心待ちにしている。

理学部ニュース2019年3月号掲載



1+1から∞の理学>

 

 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加