学生必見!! 東大教授の素顔に迫る!

~野本 憲一教授(天文学専攻 専門:宇宙化学進化論)~

聞き手:倉橋 映里香(地球惑星科学専攻攻 佐々木研究室 博士課程2年)

理学部広報委員会から研究室訪問インタビューを依頼され、どの先生に何をインタビューしようかと考えた時、まずは「今までお会いしたことのない先生に会ってみたい!」と思いました。さらに、授業やセミナーでは聞けないようなお話を聞きだすことができる絶好のチャンスだとも思いました。そこで、今回は『東大教授の素顔に迫る!』と題し、天文学専攻の野本憲一先生に学生時代のお話や普段の様子、さらに研究者になるためのアドバイス等を突撃インタビューしてきました。

学生時代

野本グループによって行なわれた超新星 1987Aのシミュレーション。対流が急激に成長し、星の中心部で合成された元素(白色の部分)が外へ向かって運ばれることが分かった。星の表面近くにおける放射性元素の崩壊が、予想より早く観測されたX線の原因であることが判明した。

倉橋:野本先生、よろしくお願いします。早速ですが、野本先生の学生時代のお話を伺いたいと思います。

野本:東大理 I に入学し、進振りで天文学の世界に入りました。天文学教室はいわば教養学部のような感じで、主に物理を勉強し、その他に天文教室独自の授業が数回ありました。最初から大学院に進学する雰囲気が暗黙のうちにありましたね。天文学教室は理Iと違った雰囲気を持っていて、いわゆる変な感じの人(笑)がたくさんいたね。実際に同級生のうち二人が哲学の教授になりました。

倉橋:えっ、哲学ですか?すごいですね。

野本:うん、そういう意味では面白いところだったね。

倉橋:大学院はどんな感じでしたか?

野本:修士課程ではコンピュータプログラムを組んで「赤い超巨星の中心部から表面までの構造を解く」ということを細々とやっていました。今のPCだとすぐできる計算が、当時の大型コンピュータだと1週間後まで結果がわからなかったので、昔は暇でしたね。夜中までだべっていましたよ。教科書をゆっくり読む時間もあったし。今は計算を走らせたらすぐに結果がでるから考える暇もない(笑)。

博士課程では「星の中の核反応でいろいろな元素が作られ、最終的に星が爆発し元素を放出する」という星の進化のコンピュータシミュレーションをしていました。その中でも、特に銀河系や宇宙の進化に一番影響を与えるイベントとして超新星爆発が鍵だろうと思い、大学院の最後の頃は超新星爆発に重点をおいて研究をしていました。

倉橋:修士から博士へいくときに迷いはありませんでした?

野本:特に迷いはありませんでしたね。

倉橋:ところで、どうして天文学に興味を持たれたのですか?

野本:高校生の時にテレビの科学番組をよく見ていて、一番面白かったのが東大の畑中武夫先生の番組でした。また岩波新書の「宇宙と星」を一気に読んだり、天文関連の講演会に参加したりしていました。私が東大に入学した年に畑中先生が亡くなってしまい、ひどくがっかりした記憶があります。

倉橋:高校生以前は何がお好きでした?

野本:中学高校とバスケをやっていて、どちらかというと体育会系的な生活でしたね。そして、どちらかというと理科系の本よりは歴史の本が好きでした。また、物理も好きだったので、物理と歴史が「進化」という観点で結びつくということで天文学が面白そうだと思いました。それで、東大の天文学教室に進むことにしたのです。

研究者としての転機

倉橋:博士号取得後はどうされたのですか?

野本:大学院終了後2年間、日本学術振興会の特別研究員になり、超新星の研究をやりました。当時は本当に就職難の時代で、その後なかなか職につけなかったので、1年間慶応大の非常勤講師として文科系の学生に星や宇宙の話をしていました。文学部だったから女子学生ばかりでしたね。

倉橋:それでは、行くのが楽しみでしたね(笑)。

野本:そうそう(笑)。非常勤講師をやっている途中で、茨城大の物理学教室の助手に採用されました。授業は結構あったけれど、茨城大の良い点として、外国留学をさせてくれる習慣があったので、着任して3年経ったところで、茨城大のポストはそのままでNASAのゴダードスペースフライトセンターに研究員として移りました。

茨城大はなかなか面白いところでしたね。物理学科の中に、天文学をやりたいという目的意識をはっきり持っている学生が結構いて、雰囲気を盛り上げていました。

NASAに2年間いた後、茨城大に帰ってきて半年で東大駒場に新設された基礎科学第二(システムサイエンス)の助手に採用され、今でいう複雑系の授業やコンピュータ演習を担当しました。宇宙はいわば複雑系なのでカオスの話と結びつけるのに役立ったりして、この授業はやっていてすごく面白かったですね。

そして、3年後くらいに宇宙地球科学教室の助教授になりました。その後、現在の国立天文台が独立するときに大きな人事異動があり、そのときに東大天文学教室の助教授のポストが公募になり、89年に本郷に戻ってきました。

倉橋:スムーズに進まれてすばらしいですね。

野本:いやいや。でも、最初のオーバードクターの時は見通しが全然なかったから大変だったね。

倉橋:東大と茨城大とNASAで環境のちがいはどうでしたか?

野本:全然ちがいましたね。東大がなんといっても一番いいのは、学生がものすごくアクティブだということ。自分ではやりたいと思っていてもなかなか時間的にやれないような新しいことを、学生がどんどん自分からプログラムを組んでくれて、予想していなかったような結果をどんどん出してくれるので、そういう意味では研究のテンポも幅もすごく広がりましたね。学生の質の良さではどこと比べても負けないと思います。だから、逆に言うと学生がいないと東大の先生はおそらくダメですよ(笑)。

倉橋:外国の場合は?

野本:外国では日本と違っていろいろな分野との接点がものすごく多く、情報がどんどん入ってきます。日本で星の進化などを計算しても実際に観測している人がほとんどいなかったため、現実感が全然わかなかったけれど、NASAに行ったときに出席した研究会で、「あなたのモデルと自分が観測している超新星のデータがうまく一致しそうだ。」とすぐに言われました。それで急に自分のやっていることが現実味を帯びましたね。宇宙というのは手が届かないところだから、どうやって研究内容が本当かどうかを検証するかが大問題。当時の日本では星の観測よりも理論のほうが進んでいて、自分のやっていることがなかなか検証できませんでした。しかし、外国では星の観測がとても進んでいたので、自分の研究とすぐに比較できてとてもリアリティや手ごたえがあって、すごく面白かったね。アメリカに行った最大の収穫がそれですね。そのことがきっかけで観測分野の人とコンタクトをとるようになりました。関係のある研究会にもなるべく出席するようになり、あっちこっち飛んで歩くという感じになりました。

倉橋:なるほど。アメリカに行けたのがとても良い機会になったのですね。

一番面白かった時期

17万光年離れたところにある小さな銀河・大マゼラン雲の中にある毒ぐも星雲(左上)。1987年2月23日、この星雲の近くに超新星1987Aが出現した(下の写真、右下の明るい天体)。上の写真の矢印は、超新星爆発をおこす前の星を示す。

倉橋:今までで一番印象に残っている研究上の出来事は?

野本:87年2月に大マゼラン雲で超新星爆発が起き、そのときに一気に観測情報が増えて、今まで自分がやってきた理論研究の結果が試されることになりました(写真参照)。さらに、ちょうど数週間前に打ち上げられていた日本のX線天文衛星がいつX線を受けるかという予測をしなければならなくなりました。予言をして、それが本当かどうかを数週間で試されるということで理論屋としては一番面白い時期でしたね。駒場にいたときだったので、隣のキャンパスにあった宇宙研X線グループに「まだX線が観測されていませんか?」としょっちゅう顔を出していました。

この超新星は南半球からしか見られず、チリ・オーストラリア・南アフリカで可視光による観測が行われていました。その中で、小さい望遠鏡だったけれど、毎晩観測していた南アフリカのグループとテレックスでコンタクトを取って情報を得ていました。その頃、電子メールがちょうど使われ始めたばかりだったので、一番確実性のあるテレックスを使っていました。質問事項をテレックスで送り、データを送ってもらってプロットを作り、理論結果と比較するということを毎晩やっていました。

倉橋:世界と一緒に動いている感じですごくいいですね。

野本:ただ、リアルタイムで時々刻々と新しい観測結果が得られるので、新しい理論を作らなくてはならないし、予想した理論がすぐに崩れるという皮肉な面もありました。

倉橋:結構予想通りに行かないこともあったのですね。

野本:そうだね。だいたい半分当たって半分はずれるという感じでしたね。X線の場合も、X線が来るという予想は当たったけれど、X線が1年後に到達するという予想ははずれて、実際は半年で来てしまいました。その時、X線観測グループは「本当に超新星から来たX線なのか」という点で発表するかどうか悩んでいました。当時、ソビエトのミールステーションでも観測が開始されており、そのグループとも競争だったのです。87年9月に東大で開かれた国際学会の発表日前日に公表することに決まり、発表数時間前にやっと発表資料が出来上がるという非常にハラハラした状況でした。

倉橋:かなり面白い時期ですね。

野本:そうだね。理論家としては、予想を発表した直後に観測結果で否定されたらかなりショックだよね(笑)。当時の日本はニュートリノで世界のトップに躍り出て、さらにX線でも世界の最前線に出ることができたことで、雰囲気がガラリと変わりましたね。それまでは日本は観測に弱いイメージだったのですが。

倉橋:ミールの観測結果はどうだったのですか?

野本:やはりX線が半年で到達したという結果を日本のX線グループが発表した直後に彼らも発表しました。

倉橋:早くに発表しておいてよかったですね。

野本:いつどこで超新星爆発が起こるかわからず、しかも何百年に一回という現象で、一旦爆発が起こると大騒動になるという点で、今までの研究の中でも一番面白い時期だったね。時々刻々と話が変わっていくので大変面白いが、逆に言えば次の日には新しい観測結果で話がちがってくるというおそろしい時期だったとも言えるけれど。

一連の仕事がたくさんの論文としてまとまりかけているときに本郷に移ってきました。やはりこれは東大でなくてはできなかったかなと思うのは、超新星の観測と競うように新しい計算プログラムをどんどん作らなくてはいけなかったのですが、それは学生のマンパワーがないと絶対にできなかったですね。とにかく「ひとりではできない」ということは超新星が出たときに痛感したことの一つですね。それまでは一人で計算してその結果を観測と比較するという感じだったけれど、大マゼラン雲の超新星が出てからは東大の学生や他の理論グループの力を借りてどんどん理論計算し、幅を広げるという方針に変わりました。だから途中から完全に一種の司令塔になったという感じでしたね。新しい情報というのはたいてい夜中に入ってくるので、夜10時11時からミーティングして次の日にやることを考えるという状況でした。

倉橋:そうすると、学生も含めて研究のやりがいがすごく実感できますね。

野本:うん、研究グループとして巻き込まれてしまった人もたぶん面白かったと思います。特に助けになったのはポスドクとして世界各地にいた人たちで、彼らに電子メールで「こういうテーマがあるから是非やるといい」とけしかけたおかげで、彼ら自身がもっている海外筋からも直接情報が入ってきました。

倉橋:なるほど、世界中にネットワークを広げていてすごいですね。

野本:結局、それくらいやらないと面白い展開についていけないという感じでしたね。アメリカに競争相手がいて、そのグループの動向についてある程度さぐりを入れることもありました。そして、「競争相手に勝つためにはまずこれをやろう」という様に対応していました。とにかく理論と観測が一体となって、いろんな人と組んでやらなくてはダメだということを痛感しましたね。そういう形で初めて成果がでましたから。

倉橋:ある意味理想ですよね。そういうスタイルは。

野本:たしかに面白かったですね。93年と94年にも近くの銀河で超新星爆発があり、特に93年にはちょうどX線天文衛星「あすか」が打ち上げられていました。だから、X線衛星を打ち上げると超新星爆発が起こるというジンクスがささやかれていました(笑)。その時も予測されていなかったパターンを示す超新星でした。3つのグループが競争でモデル計算をしていたのですが、その時の決め手はハーバード大の観測グループと良いタイミングでコンタクトが取れて最新の情報が得られたことですね。それで大至急ネイチャーに論文投稿しました。次の日にイギリスのグループがネイチャーに投稿していたので、タッチの差でしたね。

倉橋:おぉ、すばらしいですね!そういう時期は夜も寝ずに研究という感じですか?

野本:ネイチャー投稿前はいつも徹夜ですね。こういう状況だと論文投稿受付時間がかなり重要になりますからね。理想はいろいろなグループと仲良く共同研究することですが、やはり共同研究しつつも競争になりますね。どうしても先陣争いになりますからね。広くチャンネルを持つという意味では、昔抱いていた研究者のイメージと全然ちがいますね。電子メールや電話が研究の武器になっています。

倉橋:いかにしてうまくコミュニケーションをとって、情報を得るかということですね。

野本:そうそう。どういう風にチームを作るかも重要ですね。例えば、アメリカに手ごわい競争相手がいる場合はヨーロッパと手を組むとか。ヨーロッパの人はわりとアメリカ人に対抗意識があるみたいなので、日本はいい協力相手になりますね。それから、去年あたりからハワイの大型望遠鏡「すばる」が本格的に観測し始めたので、ようやく国内での理論と観測の連携プレーができるようになってきました。

海外での生活

すばる望遠鏡の下に取りつけられた観測装置の前にて。(2001年3月)野本先生ご夫妻

倉橋:海外に行っていたときの生活面・精神面はどうでした?

野本:僕の場合は家内がいてくれたので比較的楽でした。NASAに行く8ヶ月前に結婚していました。彼女のほうが英語が上手だったので、生活的な面ではすごくサポートしてくれました。でも最初はやはり大変で、何もない冷蔵庫とベッドだけのアパートをみつけ、車は中古をみつけ、あとは中古セールを探しまわっては毎日安いものを買うのが1・2週間くらい続きました。すべての買い物を一人でやったとしたら、大変だったと思いますね。そういう意味でもパートナーはやはり大事だなと思います。それにパートナーという形で一緒に行った方が、パーティーなども含めて人と接する機会が倍以上に膨らみますね。パーティーの席などで奥様同士の会話から別の情報が入ってくることもあるし。

倉橋:奥様がとても心強い存在だったのですね。

野本:それは、そうですね。

倉橋:言葉のほうはあまり苦労がなかったのですか?

野本:いやいや、最初は非常にわからなかったですね。専門用語はなんとかついていけるけれど、ランチタイムの会話とかは全然わからなかったね。

倉橋:それはどう克服したのですか?

野本:ヒアリングはテレビが一番役に立ちましたね。しゃべる方は研究会にできるだけ出ようと思っていたから、最初はその都度原稿を作って一生懸命覚えるけれど、そのうちそういう手間がなくなって、きちんとした原稿をつくらなくてもしゃべれるようになりました。ボキャブラリーの少なさは仕方がないね。

倉橋:ちなみに奥様(サイエンスライターとしてご活躍中)とはどちらで出会われたのですか(笑)?

野本:ふふふ、出会いはどこかのテニスコートです(笑)。彼女は慶応大法学部出身だったので、NASAに来たときに最初はロースクールに入って国際弁護士になってみようかなどと言っていたのだけれど、ワシントンに駐在していた朝日新聞の記者とパーティーで知り合い、サイエンス関係の翻訳を手伝うようになりました。

倉橋:でも、奥様にとってサイエンスは今までとまったく異なる世界ですよね?

野本:うん、そうだよね。勇気あるというか大胆な行動だよね。今までに15-16冊本書いちゃったし。

倉橋:実は以前にマスコミと研究者のミスコミュニケーションについてのシンポジウムに参加したときに奥様が講演されて、サイエンス関係の本を書くようになったのは野本先生の研究を宣伝するためだとおっしゃられていて、「夫婦二人三脚で素敵だな」と思いました。

野本:そんなこと言っていましたか。理解を広める意味では一般向けの本は重要ですね。

倉橋:インタビュー等で奥様一人で海外に行かれることも多いのですか?

野本:いや、僕が出張で行くときにほとんど一緒に出かけています。

倉橋:奥様一人で行かれることは?

野本:まずないですね。

倉橋:それでは、先生が一人でお家に残されることはないのですね(笑)。

研究上の壁

倉橋:今まで、研究面で一番大変だった時期は?

野本:将来の展望がなくて精神的に大変だったのがやはりオーバードクターの頃。それでも「まぁ、何とかなるんじゃないか」という感じでしたが。あと、大変というのとは裏腹ですが、超新星爆発が起こったときに「この超新星には1人ではとても太刀打ちできない」というのがすぐにわかったので、「それでは何ができるだろうか」と考えていた時に「ここで何か言わなかったら超新星学者としては失格となってしまう」という重圧がありましたね。そういうときは、アイデアが出てこないととても厳しいですね。方針が決まらないときは「この先どうなるのだろう」と心配になります。でも、糸口が見つかれば一気に展望が開けますが。

倉橋:アイデアが浮かばなくて壁にぶつかるということはあまりなかったのですか?

野本:そういうときは、大抵学生の所に行って何だかんだと話をしていると「じゃ、こうしよう」ということになるんだよね、普通は。自分の部屋で議論することもあるけれど、かなり多くの場合は学生の部屋に出かけて行って立ち話ししながらあーだこーだと言っていると「それじゃ、こうしよう」と糸口が見つかるね。

倉橋:なるほど、学生さんとの対話のなかでアイデアがでてくるのですね。

野本:ま、みなさんそういう感じだと思うけれど。学生に説明しようと思うとパッとアイデアが思い浮かぶこともあるし、学生がみつけたことで「それは面白そうだ」と思うこともある。それに天文学というのは新しい現象がいろいろと出てくる分野だから、最近では何もすることがないという手詰まりの状況になることはまずないですね。それが世界の第一線でやれるかどうかというのとはまた別ですけれど。とりあえず何かやるという手がかりはたくさんありますね。大抵は一人ではできなくて、一緒にやってくれる人がいないと実現不可能なことですが。

研究者になるために

倉橋:研究者に必要な資質とは何でしょう?

野本:資質・・・、やはり第一条件は好奇心旺盛だということでしょう。あとは根詰めて考える力や簡単にはあきらめない粘り強さが必要。それは、普段まじめに勉強することである程度身に付くと思います。あとは、コミュニケーションの能力もかなり必要ですね。問題はそこからうまく閃いてくれるかどうかという所なのだけれども、そこはコミュニケーションをたくさん積み重ねることで出てくるものだと思います。資質というよりは訓練して身につけるという感じがありますね。

僕自身は学生時代に人としょっちゅう話をするようなタイプではなくて、そういうことが特別得意な方ではないのだけれど、人と話しながらアイデアが浮かぶというスタイルが自然と身についてきました。そういう意味ではどんどん人とコンタクトをとる積極性は絶対に必要ですね。タイプとしては受動的ではだめで、自分から働きかけよう、仕掛けようという意志を常に持っていることが必要だと思うから、そういうのも一種の資質かもしれないね。それは対人という意味だけではなくて、当然研究対象にも自分から働きかけるという姿勢は必要だね。先生から「こういうのが面白いですよ」と言われてやるだけでは独立できないですね。

倉橋:そうですよね。わかってはいるのですが、学生としてはそこがまた難しいところなのですが…。

野本:ある一定レベルの視野の広さはどうしても必要で、ある程度目的意識的に自分の知識を広げようとか好奇心の枠を広げてみようとか、そういうことを意識的にやることは必要ですね。そういう能動性・積極性がないとやはり伸びないと思います。東大の学生だったら、テーマが決まってやり始めれば、パッと良い成果を出すんですよ、明らかに。本当に伸びていくかどうかは、やったことが自信になって定着するかどうかということです。それには自分で働きかけて、自分でプラン立ててやったことがちゃんと成果になるという経験をつむ必要があるわけですよね。言われたことをやったらこうなりましたではなくて。自分が仕掛けたテーマで、仕掛けた仕事で成果がでて、それが世界に通用するんだということになれば、すごい確信というか自信という形で自分の身に定着して、さらにやる気が出る。僕の場合だと、アメリカに行ったときに自分の理論が通用すると言われてびっくりもしたけれど、その自信のおかげでどんどんやる気になりました。何事も仕掛け人になるということが必要です。

休日の過ごし方

倉橋:話題を変えまして、先生の休日についてお聞きしたいと思います。

野本:最近は、土曜はほとんど学校にでて、日曜にはときどき近くの神田川沿いを歩く以外は家でゴロゴロして外食にでかけるという感じかな。スポーツなどの好きな趣味はいろいろとあっても、実際にやれるのは海外の研究会に出かけたとき。スキー場で会議があったり、海岸で会議があったりすることが多いので、そういうのを最大限利用しているという感じですね。国内だとむしろ何もしませんね。そういうこともあって、なるべく外国にどんどん出ようとしています。テニスだのスキーだのといろいろやっていたのは結婚前ですね。やはり研究者になってしまうと、観測の進展が早いし、同業者との競争もあるということで、研究に追われてしまいます。

倉橋:海外での研究会のついでが気分転換になっているのですね。

野本:そうそう。すごく楽しみだね(笑)。休日と研究というのはむしろ外国の方でうまく機能していますね。

倉橋:そういう時にはだいたい奥様もご一緒に?

野本:うん、まぁだいたいそうですね。他の人たちも家族ぐるみで来ていて、普段できないつきあいができますね。

倉橋:普段から心がけていることはありますか?

野本:気をつけているのは健康第一ということだね。なかなかままならないけれど。ちょっと病気をしたときがあったので、万歩計を必ずつけて一日一万歩は歩くようにしています。通勤だけでも、それくらいいっちゃいますけどね。あとは興味のアンテナをあちこちはっていないと、目先のことに追われてしまうので、電子メールでコンタクトしたりいろいろな人と話をしたりするように気をつけています。研究者の世界は狭いので、昔のクラス会や同窓会から声がかかったらかかさず出ています。

倉橋:それはすばらしいですね。

野本:40代くらいまでは小学校のクラス会の幹事とかを自分でやっていましたね。貴重な財産ですからね。そういう昔のチャンネルを大切にキープするということはずいぶん意識してやっています。そうしないと接触範囲がずいぶん狭くなってしまうからね。

学生とのコミュニケーション

倉橋:学生さんとの対話は意識的になされているというお話でしたが、議論以外の話もされるのですか?

野本:本当はしたいんだけど、なかなか時間がないし、それにあんまりプライベートな話に立ち入るのもね。

倉橋:学生とごはんを食べに行ったり飲みに行ったりすることは?

野本:自分が弁当持ちなので…。

倉橋:愛妻弁当ですね(笑)?

野本:そうそう(笑)。飲みに行くのはゲストが来たときや学期の節目など年に何回かだね。

倉橋:学生の指導で気をつけている面はありますか?

野本:ひとつのまとまった仕事をやって、自信がつくような形にしようとは思っています。

理想としては「このことはアイツに聞けばいい」というような定評が広まるといいのですが。難しいのは、最初のうちはある程度手伝い的な所からスタートせざるを得ない所がありますよね。それをなるべく本人独自のアイデアが入って、テーマとして確立するあたりまでの移行が難しい。博士課程に入ったら、放っておいても自分でやるわけだから。修士論文のテーマをどうするかというのが一番悩むところですね。

倉橋:研究者の道を志す若い人たちへアドバイスを。

野本:繰り返しだけれど、好奇心を育てて、自分でなんとかしようとする能動性を常に発揮することが大切。自分の環境はなんとか自分で変えるとか、まわりに働きかけるとか、そういう積極性をもつことが絶対に必要です。

倉橋:それでは最後の質問です。大学の先生としてのあり方についてどうお考えですか?

野本:難しい質問だね。いい意味のリーダーになれることが大事。単にこつこつ研究するだけではなく、グループなり学会なりでリードするという姿勢で臨むということかな。一種の司令塔になって的確な指示を出さないといけない。いろいろと仕事はできるけれど、何をどこまでやれば一人前の仕事なのかという判断を学生自身がすることは難しいから、それをちゃんと評価してあげられるというのがすごく大切です。そういう評価能力が自分自身にないといけないなとは思っています。司令塔であるという自覚も含めて、興味を広く持てとか能動的であれというような話は全部自分自身に降りかかってくるわけです。当然、大学とまわりの社会との関係をどう作るかを考えることも大学の先生にとって大切なことですね。ただ、社会全体のペースがすごく速くなっているのでゆっくり考える暇がないのが問題ですね。

倉橋:何かほしいものが手に入るといわれたら時間が欲しいという感じですか?

野本:そうだね。余裕が欲しいね。

倉橋:とても参考になる貴重なお話をたくさん聞かせていただきました。先生のアドバイスを参考に、積極性を失わずに進んで行きたいと思います。本当にどうもありがとうございました。

あとがき

正直なところ、今までお会いしたことのない先生に突然インタビューをするというのはかなり不安がありました。そんな中、なぜ野本先生に白羽の矢を立てたかというと、本文中にもありましたように、奥様である野本陽代さんのご講演を聞いたことがきっかけで「野本先生にお会いしてみたい!」と思ったのです。2時間もの長いインタビューとなってしまったにも関わらず、野本先生は終始にこやかで気さくにお話してくださいました。そして、これから研究者を目指す若手の一人としては大変貴重で有益なお話をたくさん聞くことができ、とても実りの多い楽しい時間を過ごすことができました。最後になりましたが、貴重な機会を与えてくださった広報の方々、インタビューに快く応じてくださったうえに、その後もいろいろとご協力してくださった野本憲一先生、そして長文にも関わらず最後まで読んでくださった読者の皆様に心から御礼申し上げます。