進化心理学

進化心理学

井原 泰雄(生物科学専攻 講師)

ヒトの心理は,あらゆる生命現象のなかでもっとも複雑なもののひとつである。複雑な心理の物理的基盤は,精巧にデザインされた脳のからくりにある。残念ながら現在の科学は,このからくりの全貌を明らかにするには至っていない。しかし,確信をもって言えるのは,自然界に精巧なデザインを生み出すのは,特定の性質を備えた個体が他の個体より多くの子孫を残すという単純な過程の積み重ねだということだ。つまり,脳のからくりの正体が何であれ,それをつくりあげたのは自然淘汰の過程だと考えられる。進化心理学は,心を生み出す脳の機構が自然淘汰によって形成されたことを仮定し,進化生物学的な枠組みの中でヒトの心理を研究する。

進化心理学的なアプローチは,ダーウィンの1871年の著書「人間の由来」において,早くも実践されている。ダーウィンは,ヒトと他の動物との比較に基づいて,知性や道徳心を含むヒトの心的能力が,自然淘汰により派生してきたことを示そうとした。およそ100年後, E. O. ウィルソン (Edward O. Wilson) の著書「社会生物学」は,その最終章でヒトの社会行動の進化的起源について論じている(当時,この本は政治的に不適当な「遺伝決定論」を擁護しているとのレッテルを貼られ,渦中の人ウィルソンは講演会で頭に氷水をぶちまけられたという)。1992年, J. H. バーコウ (Jerome H. Barkow) , L. コスミデス (Leda Cosmides) , J. トゥービー (John Tooby) の編集による論文集が刊行され,進化心理学の名称は広く知られるようになった。

進化心理学は,ヒトの心理を,あらゆる問題に対応する汎用システムとしてではなく,個別の問題に対応する「モジュール」の集合体としてとらえる。具体例をひとつ挙げよう。ヒトの進化の過程で,個体間の協力の成立は生存や繁殖を左右するひとつの鍵であったと考えられている。協力の維持には,協力しない個体,すなわち社会契約への違反者を見分けることが重要になる。簡単な心理学的課題を使って,被験者にさまざまな規則への違反を発見させる実験を行うと,同一の論理構造の課題であっても,社会契約の文脈が与えられた場合に,より正確に違反が発見される。この結果は,ヒトの心理に「裏切者検出モジュール」が備わっている可能性を示唆する。