海洋中の物質拡散

川邉 正樹(大気海洋研究所 教授,地球惑星科学専攻 兼任)

図1

文部科学省の発表データ。海洋研究開発機構が計算したもの。

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海には河川から陸上の物質が流れ込み,大気の運ぶ物質が海面に降りそそぎ,海底湧出域からは地球内部の物質が流出し,海中では海洋生物の糞や死骸の分解や光合成によって有機物が生成されている。これらは,海底に堆積する物を除くと,粒子として浮遊するか化学分解して海水に溶解し,流れによって運ばれる。海洋中の拡散は,このような自然の物質循環に寄与し,魚の卵稚子などを運ぶことで豊かな生物資源の生成にも寄与している。しかし,拡散への社会の関心が集まるのは,ゴミや重油,汚染水,エチゼンクラゲなど,有難くない物が大量に放出された場合である。今般福島原子力発電所から流出した放射能汚染水にも海洋の拡散効果が働く。

海水の流れを継続時間が測定間隔に比べて十分に長い層流と規模が小さく通常の観測にかからない乱流に分けると,物質を運ぶ移流効果により,前者は物質を効率良く下流に運び,後者は物質を拡散して濃度勾配を弱める。こうした働き方の違いから,前者を移流,後者を拡散とよんで区別する。

拡散の研究は,分子運動による物質分散の考察から始まった。分子が衝突するまでの時間は,私たちの観測時間に比べてはるかに短いため,ランダム歩行の確率論モデルを適用して分子拡散の理論が確立された。さらに,流速を平均流速とそれからの偏差で表し,分子拡散のアナロジーを使うことで乱流拡散の方程式が導かれた。それをさまざまな条件のもとで解くことにより,物質の瞬間点源による円形パッチや固定点源からの連続放出によるプリュームなどの理解が進んだ。

問題の原子力発電所は,それぞれ36°Nと39°Nの周辺を東方に流れる黒潮と親潮の間に位置し,沖合には南北流や中規模渦が存在する。漏れ出た放射能汚染水が岸近くで円形パッチ状に拡散すれば,通常の拡散係数の範囲では1日で数 km ~ 20 km 程度に広がり,中心の濃度は時間に比例して低下する。こうして沖に出た汚染水が,流れによって南方に運ばれれば,多くは黒潮に乗って1日に数十 km の速さで東に運ばれるであろう。文部科学省が発表した数値モデルの結果では,汚染水は一度北東に流れたのち,沖合の南下流によって南に運ばれ,蛇行する黒潮に乗って薄まりながら東に運ばれる(図)。