大気中の物質拡散

小池 真(地球惑星科学専攻 准教授),
中村 尚(先端科学技術研究センター 教授,地球惑星科学専攻 兼任)

特定の発生源から大気中に放出された物質が,どれほど広範に輸送・拡散されるかは,その物質の大気中での(他の物質への変容や大気からの除去によってきまる)寿命と,大気の乱渦による混合・(狭義の)拡散過程や,より大規模な流れに依存する。

まず物質の大気中での寿命や除去過程についてみてみると,それらは化学組成や形態に依存する。 たとえば,原子力発電所の事故で大気中に放出される可能性のある放射性のクリプトン(85Kr;半減期は約11年)は,水に溶けにくく化学的に安定した希ガスのため,放出源の場所によらず大気循環により全世界に拡散してゆく。 ただし周りの空気との混合によりその濃度は次第に低下してゆく。 また希ガスゆえに,人間が呼吸で摂取してもそのまま排出されると言われている。 いっぽう,放射性セシウム(137Cs)や,最初は気体として放出されると考えられる放射性ヨウ素(131I )のある程度の量は,粒子状物質(エアロゾル)として大気中を輸送される。 このうち直径が数十 µm 以上の大きな塵は,たとえ降水により除去されなくても,数時間から数日以内に重力落下してしまう。 対照的に,小さなエアロゾル(直径数十 nm ~数 µm 程度)は,雨や雪などの降水がそのおもな除去過程となるため,降水がないと1週間以上も大気中に滞留し,長距離まで輸送される可能性がある。 降水過程は大気中のエアロゾルを効率的に除去するため,特に降り始めの降水中には,それ以後の降水に比べて高い濃度の放射性物質が含まれる可能性がある。 また降水でいったん地表に落ちた粒子が,強風により再び浮遊することもある。 いっぽう,降水により除去された放射性物質は,陸水,土壌,作物,酪農などに蓄積する可能性がある。

次に大気中の輸送についてみてみると,地表付近から放出された化学物質の大部分は,高度約 1.5 km までの大気境界層の中に留まる。 ここでは大気の乱渦による3次元的な混合や拡散が効果的で,さらに大気循環(大規模な風の流れの場)による水平輸送や地形の影響のため,物質は放出源からその時々の風下へ向かって拡散してゆく。 たとえば,沿岸にある福島第一原子力発電所から,3月15日までに起きた水蒸気・水素爆発により放出された放射性物質は,直後に吹いた海側からの風により内陸へ輸送され,発電所から北西方の請戸川の谷沿いに,相対的に高い濃度で蓄積されたと考えられる。 さらにその後に吹いた北寄りの風による輸送で,発電所の南側の沿岸で濃度が高まったようである。 原子力安全研究センターの輸送モデル SPEEDI による放射線量の推定値マップには,このように大気中の放射性物質量が多かった時の,風の場による輸送の結果が反映されていると考えられる。 境界層内に留まっていた放射性物質の一部は,3月15日頃に海寄りの風をもたらした低気圧に伴う大気の上昇運動に乗って上昇し,強い偏西風によって数日内に北米大陸,さらには欧州上空にまで達したことが観測されている。