ベクトル束

古田 幹雄(数理科学研究科 教授)

線形代数とは,非線形な諸現象をまず一次近似したとき,その近似の振る舞いを解析するツールである。しかし,私たちが本当に知りたいのは,非線形の諸現象である。その非摂動的な,トポロジカルな,大域的な性質を調べる数学的ツールとして「ベクトル束」がある。

ベクトル束とは,線形性と非線形性の狭間に位置する幾何学的対象である。大域的な捩れを担えるほどの非線形性をもち,しかも線形性に由来して,具体的な計算から把握可能な扱いやすさをもつ。定義はやさしい。ベクトル束の例として「接束」と「法束」は基本的である。

曲面上に描かれた曲線を考えよう。曲線の各点には「接線」と「法線」とが付随しており,各々一次元のベクトル空間である。曲線上の点を動かすと,それらは連続的に動く。しかしその動き方は,もはや線形ではない。接線を束ねて,全体をひとつのものと見るとき,これを「接束」とよぶ。同様に法線を束ねたものが「法束」である。一般に,ベクトル空間を束ねた全体が,ベクトル束に他ならない。クラインの壷の中に曲線を描く。ある描き方をすると,曲線の法束は「メビウスの帯」の形状になる。メビウスの帯の捩れは,クラインの壷の中に描かれた曲線の捩れを反映している。曲線の捩れ方を直接とらえるのは難しいが,まず,法束という線形代数を使える対象の捩れ方を考えるのである。

ベクトル束に対して積分と似た操作が定義され「指数」とよばれる。積分が関数から数を得る操作であるのに対して,ここで使われるのはベクトル束からベクトル空間を得る操作である。そのベクトル空間は「ベクトル束に付随した線形偏微分方程式の解空間」を用いて定義される。たとえば素粒子物理において,右手系と左手系の非対称性が知られているが,これはある種のベクトル束の指数の非自明性と関連する。筆者は,無限次元の空間の上で,ベクトル束の指数を考察すると,普通の積分だけでは届かない深い情報が得られる例を見出した。とくに,思いがけないことに,ある種の4次元空間が,数学的に存在しえないことがわかった。その空間上でディラック方程式を考察すると,解の次元が大きすぎて,別の知見と矛盾するのである。最近は,この方法の射程がいかほどであるかを探っている。