数学から錯視,脳,アート,そして画像処理へ

数学から錯視,脳,アート,そして画像処理へ

新井 仁之(数理科学研究科数理科学専攻 教授,数学科 兼担)

図1
図1:(1) フラクタル螺旋錯視(新井・新井,2007)。同心円状に配置されたフラクタル島が螺旋に見える。(2) 錯視成分を除去すると螺旋錯視が消失する(新井・新井,2010)。
図2
図2:左図が原画像。右図が新井・新井によるエッジ抽出技術を施した画像。たとえば赤矢印の部分を見ると,鉄塔と電線が容易に視認できる。いっぽう,原画像のみでは視認しにくい。

1.視知覚に関する究極の問題

「人の脳は,外界からの視覚に関する情報をどのように処理しているのだろうか?」これは脳科学,認知科学,視覚科学,心理学などの分野で研究されている究極の問題のひとつである。実際,これまで多くの人の努力により,いろいろなことがわかってきた。しかしまだ未解明な部分も多い。私の研究はこの問題に先端的な数学,ならびに必要に応じて創った新しい数学を軸に,脳科学や知覚心理学も組み入れて迫り,さらにその成果を社会に役立つような技術として結晶化させるというものである。私自身はこのような研究を数理視覚科学とよんでいる。

2.数学の有効性

研究目標のひとつは,脳が行っている視知覚に関する情報処理の数理モデルをつくることである。その際,脳科学,知覚心理学などで得られた実験結果などを元にする。しかしそれが足りないこともある。その場合は数学を使って脳内の情報処理の仕組みを推測していく。といっても数学だけの単独思考をするのではなく,関連した分野との協働的思考で進め,膨大な計算機実験も行う。

ところで,脳は機能によりいくつかの領野に分類されている。その総体のメカニズムの数理的理解が最終目標であるが,現在は個々の領野の(一部の)数理モデルをつくっている段階である。私は共同研究者の新井しのぶと共に,まず大脳皮質のV1野とV4野から着手した。そしてV1野に起因すると考えられる一連の錯視(視覚の錯覚)を統一的な数理モデルでシミュレーションすることに成功した。錯視は視覚の数理モデルにとって重要な鍵であると考えている。なぜならば,作ったモデルをコンピュータに実装したとき,それが人と同様に錯視を起こさなければ,適切なモデルとはいえないからである。さらに私たちはシミュレーションだけでなく,V1野とV4野のニューロンの数理モデルにおいて,錯視成分の特定,錯視の除去,強化などを世界で初めて行った(図1参照)。

3.応用技術に結晶させる

さて視覚の究極的問題はまだ解明されていないが,それを目指す上記のような成果は得られてきた。興味深いことに,これらの成果を使うとさまざまな応用技術を開発することができた。たとえば,私たちは視覚の数理モデルを用いて好きな画像をある種の錯視画像に変換する方法を発明した。これにより,オプアートの世界に新しい技術をもち込め,商業的応用として本方法により作成した錯視が菓子パッケージ,本の表紙,うちわのデザインとして採用され販売された。またアートの展覧会で展示された作品もある。このほか,画像処理への応用として,人の視覚に優しい新しい鮮鋭化,人の視覚機能の一部を特化させたエッジ検出(図2参照),輪郭線検出,立体視的エッジ検出,ノイズ低減,色知覚の逆算処理,新しいディジタルフィルタ設計方法などを開発した。以上の発明により複数の特許が国内または海外で査定登録されている。

今後はさらに視知覚そのものの研究を深めると同時に,実用的技術開発もしていきたい。

数学の研究というと,高度に抽象化されたものと感じる方がおられるかもしれない。確かにそうではあるが,同時にさまざまな現実問題への応用も可能である。それは物理現象,社会現象といった外的な現象だけでなく,視知覚のような内的な現象にもおよびつつある。そしてそれは新しい実用技術への扉を開くものにもなっている。