数学

数学

山本 昌宏(数理科学研究科数理科学専攻 教授,数学科 兼担)

図1

数理科学研究科コモンルーム

アインシュタインに「先生の研究室はどのようなものですか」とある人が質問したところ,彼は胸ポケットにさしてあったペンを示し,ここです,と答えたという話がある。数学の現場も似ている。数値実験以外は実験が少ないという数学の性格もある。大規模なハードウェアに依存することもほとんどない。したがってどこでもが数学の研究現場になりうる。真っ暗闇でも頭の中であれこれ論理の筋道を考えている。考えを書き留めるために明かりがあったほうがよいが。これが第一の意味での「現場」である(「現場」らしくないが)。

第一の意味の現場からの成果は数学の専門書のようにかっちりと表現されていないことが多く,作曲家のスケッチや見取り図のようなもので,第三者(数学的な素養が仮定されるが)が誤解なく理解できるような表現に鍛えあげることが必要である。そこで第一の意味での現場で得られた着想はある段階で同僚や院生などに聞いてもらい,議論をして客観的な表現に昇華させていく。そのさいに間違いや一人よがりの表現などが訂正されたり,結果の一層の飛躍につながることもある。そのような第二の意味での現場は,黒板と机のある部屋である。東野圭吾の連作推理小説「ガリレオ」の物理学者・湯川学准教授は何か思いつくと道路でも窓ガラスでも何やら書き始めるが,数学者は黒板である(ホワイトボードでもない)。何か思いつくと誰かと黒板で議論したくなるので,数学科にはやたらと黒板がある。壁に計算を書かれないようにする対策かもしれない。

数学には一人で考えを積み重ねる孤独な現場があるいっぽうで,同僚らと議論する場が重要である。そのためには黒板と机があり誰でもが自由に出入りできる談話室が大事である(図:数理科学研究科コモンルーム)。数学はひとたび証明されれば絶対変更されない真理であるので過去の先人との対話のため紙媒体の本が充実した図書室も重要である。

それと数学者はコーヒーを好む傾向があるようでそのような場所でのコーヒータイムが意義深い。実際,数学者とは1杯のコーヒーを1つの定理に変換する機械のことであるという言い回しもある。海外の研究所には談話室にエスプレッソマシーンがおいてあることが多く誠にうれしい。そこでの議論は単なるおしゃべりのようにもみえるが,研究自体と関係がなさそうな会話にも研究のヒントが隠れている。数学者によっては孤独な作業をとことんやり,完成間際になって初めて同僚と議論する場合もあるが,孤独な作業と議論(時には激しい論争)からなるサイクルは同じである。数学者はテニスなどで気分転換をする人も多いが(筆者はしない)テニスコートでも結構議論しているのかもしれない。音楽や楽器演奏を嗜む数学者(筆者がそう,ただし聴く,観るだけ)もけっこういる。

以上が数学の現場として,ごく古典的なものである。環境の変化も重要で,海外の研究機関に滞在したり,自分が出かけるかわりに海外から研究者を招聘して議論することで劇的に研究が進展することがある。国際会議も意外性のある研究者との遭遇というか出会い頭の議論で思わぬ成果が生まれることがある。数学は紙と鉛筆だけできるチープな学問という誤解があるが,上記の目的のためには図書や旅費など一定の資金は常に必要で,研究成果をめぐる収支効率は良い(と評価できる)。

数学の研究はまったく自由であり,取り扱う領域も大きな広がりがある,そこで研究の現場も上に述べたようなオーソドックスなものだけではなく,最近は多様化している。たとえば筆者のグループは,高炉内の状態推定やマーケティング戦略の数理などに関する実用手法の開発などに関して産学連携の数学をここ10年来,新日鐵(現・新日鐵住金株式会社)や,花王株式会社と進めているが,その場合の数学の研究現場はそれぞれの業種の産業現場でもあり,数学自体の探求とともに実用化・経済効果を目指すこととなる。