理学部紹介冊子
量子力学がセキュリティに役立つ

職場で論文を読んでいる筆者。
PROFILE
鶴丸 豊広(つるまる とよひろ)
- 1996年
- 東京大学理学部物理学科卒業。
- 2001年
- 東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。博士(理学)。三菱電機株式会社入社。現在,同社・情報技術総合研究所情報セキュリティ技術部所属。
いまや誰のかばんの中にも暗号装置がいくつか入っているという時代である。SUICAや車のキーや携帯電話には偽造を防止するための暗号回路が入っている。インターネットで買い物をするときにブラウザの端に南京錠のマークが出ていたら,コンピュータが勝手に通信を暗号化してくれているという目印である。いま私がいる情報セキュリティ技術部というところはおもにそういう暗号の研究開発をする部署である。同僚は携帯電話やETCに乗せる暗号回路の開発や,楕円曲線暗号の理論研究をしたりしている。
その横で私を含め数人で「量子暗号」の研究を行っている。この暗号の最大の売りは「絶対に破れない」ということである。どんなに技術が進歩しても,どんな天才が現れても破れないとされている。なぜかというと安全性の根拠を量子論においていて,つまり破れたとしたら量子論が間違っていたということになるからだ。量子暗号装置はまだまだ大きくかばんの中には入らないし,通信距離も100 km程度が限界であるが,数年後にはもしかしたら普及しているかもしれない。現在の私の仕事は,この量子暗号の安全性を理論的に研究することである。
就職を決意したのは博士課程2年の半ばくらいだった。専門は素粒子論で,なんとか学位も取れそうだとはいえ,本音としては研究をやればやるほど自分が何をやっているのかわからなくなっていた。自信も喪失してほとほと物理に嫌気がさしていたと思う。いちおう数理物理に分類されることをやっていたが,いまから振り返れば,実験のこともろくに知らず数式だけで何かをいおうというアプローチに限界があった気がする。それに当時は超弦理論が全盛だったのに自分はそれをやっていなかったし,ポスドク問題も深刻だったしで,とうてい大学に残って食っていける気がしなかったので就職することにした。
暗号に興味をもったのは,そのころ流行りはじめだった量子計算について勉強していたときだったと思う。量子計算そのものにはそれほど興味を持たなかったかわりに,量子計算機で破られる方の公開鍵暗号に興味をもって「これだ」と思った。これなら世の中で実際に使われているし,整数論などの数学も駆使していて興味が持てると思った。
それで就職活動もその方向で動いた。共通鍵暗号で当時すでに有名だった三菱電機にいったら,理論研究もやらせてもらえるというのでここに行こうと思った。しかし最終面接で「実はいま当社では量子暗号の実験を立ち上げているところで,それを手伝ってもらうことが採用の条件だ」と言われた。このときは,「物理と決別したくて就職活動していたつもりだったのになぜ?」と思ったが,並行して公開鍵暗号の研究もやっていいとのことだったので入社を決意した。
とはいえ本音としては依然として量子暗号はやりたくなかった。そこで実際に入社してからとりあえず「やっぱり量子暗号はやりたくない」と言ってみたら,驚いたことにそれが通ってしまった。それで入社後2~3年はもっぱら公開鍵暗号や共通鍵暗号の研究開発をやっていた。パスワードを破るソフトウェアをつくったり,営業の人と一緒に官公庁の客先にいったりしていた。大学院での理論研究とは違って実際のものに触れているという感覚があって面白かったし,目からうろこが落ちることばかりだった。一方で研究ではほとんど成果が出ていなかったと思う。やはりまったく違う分野に移ってからすぐに成果を出すというのは厳しかった。
量子暗号に本格的に軸足を移したきっかけは入社して3年目だった。そのときの新入社員の修論のテーマが量子暗号だったのだが,その人には入社後もまだ書かなければならない論文が残っていた。そしてそれを手伝うように上司に言われたのだった。このころには私の物理恐怖症もかなり治まっていたと思う。実際にやっているうちに,やはり自分には代数学や計算量理論を駆使した公開鍵暗号よりも,量子暗号の方が感覚的にあっているとまざまざと思わされた。それ以降はあまりぶれることなく量子暗号の理論研究を続けている。
この研究の面白いところは,通信距離や速度を可能な限り安価に伸ばすといういかにも工学的な目的を達成するために,量子論が不可欠になるということである。たとえば,かつては長距離の量子暗号には厳密な単一光子源が不可欠とされていたが,その後の理論研究の進展によって,それを微弱なレーザ光で代用しても無条件安全性が達成できることが明らかにされた。目的は工学的だから企業でもやりやすい。そしてそれを通じて,学部や大学院で学んだはずの物理についてあとから「そうだったのか」と考え直させられることも多い。そういう意味で理学はひじょうに役立っている。