理学部紹介冊子
生物化学専攻
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図1:生物化学科3年生の学生実験の様子
理学系研究科の専攻紹介のトップバッターが生物化学専攻に回ってきた。紋切り型でない面白い内容をとの編集委員会からの注文つきである。きれいな花の一杯ある植物園や大自然に囲まれた木曽観測所の紹介と違って専攻には目玉となる見せ物がない。簡単にこの学科/専攻の歴史を振り返り,五つある研究室からのメッセージをお伝えすることにしたい。
歴史
生物化学科の創設は1958年である。100年以上の歴史を誇る他学科から見れば新参者であり,われわれもどこか自分たちは新しい学問に取り組んでいるという意識をもち続けているが, 50年の歴史というのは学生の皆さんからはすでに明治や江戸とさして違わぬ古さかもしれない。東京大学の生物化学科とあい前後して,京都大学理学部には生物物理学科,名古屋大学理学部には分子生物学研究施設(後に学科)が設置されている。名前こそバラバラだが,分子に基盤をおいて生命を理解しようという学問の確立を象徴する当時ならではの組織改革であった。その後,分子生物学やその発展型としての遺伝子工学はあっという間に生物学の各領域,さらに医学,薬学,農学などにも浸透して行くが,分子生物学を単に解析技術とみる応用分野とは一線を画し,分子から生命を眺めることで生命の本質が理解できると考えている研究者の集団が,生物化学専攻であるといってよいかもしれない。タンパク質の構造解析から神経回路の形成まで,研究課題は様々であるが,生命を分子で理解するというスタンスは専攻全体に行き渡っている。
教育
学部教育について簡単に触れると,基本的に実験科学であり,3年生では週日の午後はすべて学生実験にあてられている(図1)。4年生も4月末には研究室配属となり,多くの人は実験に明け暮れることとなる。授業は必修科目が比較的少なく,他学科の授業も広く卒業のための単位に認定される。さまざまな学問分野の混成で誕生した学科創設時の自由な雰囲気を保ち続けてきた制度であるが,最近は多くの学生が比較的,似通ったカリキュラムを取る傾向にある。専攻として学問の硬直化が始まっているのではないか,検証が必要な時期にさしかかっているのかもしれない。
初期の卒業生たちは,分野のリーダーを務める年代になっている。創設時の雰囲気も手伝って,ユニークな人材が多く,自分は東京大学理学部生物化学科とは無縁である,というような顔で振る舞っている人にも,実は卒業生がいたりする。医学部で細胞死の権威であったり,ブログの御大であったり,ヒトゲノムのリーダーであったり,魚の体表パターン形成を数理的に追究していたり,リストは尽きないが,紙面の関係上,卒業生の詳しい紹介はまたの機会に譲りたい。
研究

図2:理学部3号館の外観
理学部1号館の三期工事が完成すると,生物化学専攻は全体が新しい建物に移る予定である。現在は,日本が貧しかった戦後まもなく,飛び地である浅野地区に立てられた,風雅さのかけらもない校舎つくりの3号館(図2)を本拠地としているが,建物の中で行われている研究活動は活発であり,また構成員全員が頑張って獲得している競争的研究資金も潤沢なレベルにあって,実験装置などで他の研究組織に遅れを取っていることはない。それぞれの研究グループの研究は国際的によく認知された高い水準にある。
学科全体に関することで2点補足しておきたい。理学系研究科では新領域創成科学研究科および情報理工学系研究科と協力して,2007年に理学部に生物情報科学科を新設することをめざしている。生物化学専攻は,先行事業としての生物情報科学学部教育プログラムの推進を支え,この新学科の創設に全面的に協力してきている。本年4月からは新学科担当予定教員として,黒田真也教授と程久美子助教授が着任した。他専攻との関係という観点では,研究内容における生物化学専攻と生物科学専攻の差異は今日どんどん縮まっており,とくに生物科学専攻で遺伝子や分子細胞生物学を研究しているミクロ系の教員たちとはほとんど区別がないところまで来ている。このような状況を反映して,2002年度から両専攻は共同で21世紀COEプログラム<「個」を理解するための基盤生命学の推進>を開始した。21世紀は両専攻のみならず,東京大学内の多くの生命科学研究者がより緊密な連携を作り上げる時代であろう。
5つの研究室
ここからは個別の研究室の話題に転じる。生命科学においてはグループの極端な細分化は研究上の競争力を削ぐという考えから,生物化学専攻では5人の教授を中心とした5つの研究グループで研究を進めてきた。各グループには3ないし4人の教員が所属している。5人の教授はそれぞれユニークな性格の持ち主が多く,いつも多様な意見が飛び交っている専攻でもある。3名が本学科出身,2名が京都大学の出身で,本学科の出身者も1名は企業研究所と九州大学を,他の1名は京都大学を経由している。以下は各グループの自己紹介である。教授の着任順に紹介する。

図3:ショウジョウバエのハネの形成に対するRNA干渉法の効果。遺伝子機能が抑えられて矮化した羽が生じる。
西郷薫教授は専攻の中で生物情報科学科の設置にもっとも情熱を注いできた教員であるが,その設立を待たず今年度末で定年を迎えられる。西郷グループはショウジョウバエの研究からヒトの分子遺伝学をめざしている。同教授からのメッセージを次に引用する。「ハエとヒトは,数億年前に共通の祖先から分かれた生物なので,ハエの体ができる分子・遺伝子機構が分かると,ヒトの体をつくる機構の理解も大いに進むであろうという考えは基本的に正しい。しかし,“普遍性”だけでヒトを完全に理解することはできない。ヒトをヒトとして理解するためには,ヒトに特化した分子遺伝学の構築がどうしても必要である。面白いことに,このような種の“多様性”を追求するためのもっとも有力な基盤技術は,生物の“普遍性”に基づいている。ハエもヒトもmicroRNAという短いRNAを用いてその発生分化を調節する。このmicroRNA機構をうまく借用した,人為的な遺伝子機能破壊法が, RNA干渉法(RNAi)である(図3)。われわれは,ハエの研究からRNAiに関わり,ほとんど誰も見向きもしなかった1999年頃から程久美子さんらと共同で哺乳類RNAiの可能性を調べ,それが実現できることを示すと同時に,ヒトにおけるsiRNA(21塩基対の人工合成二本鎖RNA)の技術的困難を克服して,ヒト遺伝子機能破壊基盤技術の確立に貢献した。これにより,任意のヒトや哺乳類の遺伝子を機能破壊した“突然変異体(細胞)”を簡単に作ることができるようになった。siRNAは,ウイルスをも有効にノックダウンする可能性を秘めており,いくつかの克服すべき困難はあるが,人類による全ウイルス病の克服は案外近い将来に達成されるかもしれない。新領域の森下教授と共同で有効siRNAをサーチするウエブサイト siDirect(http://design.RNAi.jp)を公開しているので,興味のある人は使ってみてほしい。」
西郷グループの榎森康文助教授は,味を感じる仕組みを研究している。味を感知するのは味蕾という50〜100個の細胞の集団で,おもに舌にある。味を感知する仕組みは最近かなり解明され,甘味・うま味と苦味を受け取る受容体分子の実体や,味の感知にカルシウムイオンが重要であることなどが分かった。しかし,味蕾の細胞が生まれて分化する仕組みや,平均10日で無くなる仕組みなど,不明なことも多い。榎森助教授らは最近,寿命が2〜3日という味蕾の細胞があるいっぽう,1ヶ月以上の細胞もあることを見いだした。

図4:分裂酵母細胞において減数分裂期の核を駆動するためダイナミックに構造変化する微小管(赤)。0.5分ごとに撮影。1フレームの幅が約20μmに相当。緑は細胞表層で運動を助けるタンパク質
私,山本はこの3月まで理学系研究科の副研究科長を務め,また前年3月までの2年間,マンモス学会である日本分子生物学会の会長であった。現在も21世紀COEの拠点リーダー役であるが,この4月からは,会議や書類作成に追われて学生と話す十分な時間が取れないという悩みがいくらか軽減した。われわれのグループは分裂酵母を材料に,減数分裂を制御する分子機構の研究で世界をリードする立場にある。図の減数分裂期に見られる微小管の特徴的な構造変化を紹介する(図4)。最近,減数分裂に必要とされるmRNAを,それらが不要な増殖中の細胞から選択的に取り除く面白い分子機構があることを明らかにした。
線虫を材料に生殖細胞の性決定のメカニズムにも取り組んできた。われわれのグループの一つの活力源となっている田仲加代子講師は,生物化学専攻で教授会メンバーとなった初めての女性教員である。新しい学問を標榜しながら不思議なことだが,生物化学専攻には,35年も前に在籍された2人の助手,内田庸子先生(のち三菱化学生命研究所)と井上貞子先生(のち昭和大学薬学部)以降,杉本亜砂子さんがわれわれのグループの助手になるまで,20年以上も女性教員が不在の時代が続いた。生物化学科には例年,女子学生が20〜25%ぐらい進学してくるので,教員のこの比率はかなり低い数値である。山本グループにおける女子学生比率は実際には専攻全体と大きく変わらないのだが,性別を全く気にしない研究室の雰囲気のせいか,過半数が女性だと外部から錯覚されることもあった。卒業生に田仲さんや杉本さん(現・理研チームリーダー),一色孝子さん(国立遺伝研助教授),加納純子さん(京大助手),珍しい職では木川りかさん(東京文化財研究所主任研究員)など,元気な女性研究者が多いが,また,飯野雄一さん(東大遺伝子実験施設助教授),渡邊嘉典さん(東大分生研教授),前田達哉さん(同助教授)たちをはじめ,各分野で活躍する男性卒業生も輩出している。

図5:構造決定されたタンパク質とタンパク質 - 核酸複合体をリボンモデルで表した例
横山茂之教授は理研傘下のいくつかの研究所を兼任し,また文部科学省が力を入れる「タンパク3000プロジェクト」の網羅的解析プログラムの責任者でもある。超多忙でいつも飛び回っていて,“捕まらない教授”の代名詞になっている。
同教授のグループでは,タンパク質やDNA, RNAといった生体高分子の立体構造の解明をキーワードに研究を行っている(図5)。X線結晶解析やNMR分光法を用いて,遺伝子の発現(複製,転写,翻訳など)や,細胞内のシグナル伝達などに関わっているタンパク質を中心に構造生物学的研究を進めている。タンパク質の立体構造や分子機能の体系的・網羅的な解析によって,多くのタンパク質から構成されるシステムが動作する仕組み(生体高分子間の相互ネットワーク)を三次元の視点で理解しようというのがその目的である。究極の目標は,タンパク質の立体構造を集めて,コンピュータ上で細胞を再構築(シミュレート)することである。昨今の研究から,がんなどの疾患は,情報伝達や遺伝子発現のシステムを構成するタンパク質の一部の異常が原因になっていることが分かってきた。横山グループの構造生物学的アプローチは,疾患の分子メカニズムについても重要な知見を与え,合理的な治療法の開発に役立つことが期待される。


図6(上):遺伝子組み換えを受けたマウス(下):授乳中の遺伝子組み換えマウス母子
坂野仁教授は1994年,カリフォルニア大学バークレイ校教授から当専攻に転任した根っからの国際派である。同教授の意見や判断は常に国際標準に依拠しており,はっとさせられることが少なくない。現在,全学の留学生センター長を兼務している。坂野グループは生体システムにおける多様性の識別機構を明らかにするために,免疫系と嗅覚受容系で研究を行っている。ヒトやマウスの免疫系では, DNAの組み換えが抗原受容体遺伝子の多様化に重要な役割を果たしている。下等な魚類において最近発見された新たな抗原受容体は,遺伝子変換という機構を利用して多様性を獲得している。坂野グループでは免疫系において遺伝子再構成に伴い多様な遺伝子が創り出される分子機構の解明も行っている。また,多様な分子構造を識別するもう一つの系としてマウスの嗅覚系に着目し,嗅覚受容体(OR)の単一発現制御機構と嗅神経細胞の軸索投射機構について解析している(図6左右)。嗅覚系では,個々の嗅神経細胞の発現するOR遺伝子は一種類に限られること(1神経・1受容体ルール),および嗅球上の投射先である糸球構造とORの間には1:1の対応関係が成り立つこと(1糸球・1受容体ルール)が知られていたが,坂野グループでは, OR遺伝子の単一発現にはlocus control regionと呼ばれる領域による正の制御と,発現されるOR分子自身が他のOR遺伝子の活性化を抑制する負の制御が関与していることを見出した。1糸球・1受容体ルールについては,軸索の嗅球への投射が,背腹軸に関しては嗅神経細胞の嗅上皮における位置によって,前後軸についてはORを介して入力されるシグナルの強度によって決定されることを明らかにした。個々の嗅神経細胞が,発現するORの種類に応じて嗅球上の投射位置を決定する機構は, OR遺伝子の発見以来15年を経た現在でも大きな謎となっている。坂野グループでは,神経細胞の個性(identity)が軸索末端にどのような分子のコードで表現されることによって,特異的な軸索投射やシナプス形成が可能になるのかという,神経科学全般に関わる課題を解き明かしたいと思っている。

図7:生物時計の24時間振動メカニズムのモデル図

図8:真田氏とお嬢さん
最後に一番若い深田吉孝教授のグループを紹介する。同グループは働き盛りの深田教授を中心に,サーカディアンリズム(体内時計)の研究を鋭意,進めている(図7)。その成果が新聞紙上で紹介されたことも多い。同グループでは最近,ハーバード大学で留学生活を送っていた真田佳門さんと小島大輔さんが助手に着任した。現在も,真田さんの奥さんを含めて研究室の出身者3人が留学中である。活気にあふれる同グループの雰囲気を伝える,真田さんからの寄稿を紹介しよう(図8)。
「現在,2歳の娘と二人で東京に暮らしており,さながら“子連れ狼”のごとく,週末にはベビーカーに娘を乗せて研究室を放浪しております。私はハーバード大学医学部に約5年間留学しましたが,ここは米国におけるアカデミック活動の象徴的な存在で,世界中からポスドクがキャリアアップの夢をもち,集まってきています。研究室のボスは大学での生き残りのみならず社会的な成功をめざしてしのぎを削り,そのプレッシャーは全米屈指です。当然,同様のプレッシャーはポスドクにもおよび,生き残りをかけた戦いに勝った,まさに“狼”のような(猾賢い?)者のみが華やかなスポットライトを浴びるという厳しい現実があります。ただ家庭生活に対するサポートは意識の面でも制度の面でも充実しており,その分,研究に集中できる環境が確保されています。日本では,研究機関に付属した保育園がなく,“家庭と研究の両立”は難しいと感じる局面が多々あります。ボストンでは,“子供は地域の宝”という認識があり,子連れにはきわめて優しい町になっています。ボストンと比べて東京ははるかに都会ですが,こちらへ来て三ヶ月,娘と電車に乗っていて未だに席を譲ってもらったことのない現状を鑑みると,“子連れ狼”のゆく末に一抹の不安が。留学中の5年間,神経科学研究分野の最前線で戦い,生き延びた経験をもとに,今後,生物化学科からニューロサイエンスに新風を巻き起こす研究を発信していきたいと思っています。」
最後に
駆け足で各グループを紹介した。生物化学専攻のみならず,理学系研究科は探究心を守り育てることをその使命としている。理学系の研究には制約が付されていない。不思議だと思ったことを徹底的に,あるいは粘り強く調べ,問題を解き明かすことで人類の智恵の蓄積に貢献する。そのような営みが許され,しかも社会からの負託を受けている場所が,理学系である。生物化学専攻の将来は学生諸君と若いスタッフの探究心に百パーセント委ねられている。