理学部紹介冊子
《はじめに》理学部旧1号館の記憶
旧館は地下1階,地上4階で,図3の図面のように東西に長い「ロの字」形をもち,周囲には空堀を巡らせていた。東側が現在の残存部分で,正面玄関は図1のように北側にあり,通用口は南東(現存)と南西の隅にあった。私は北東隅(現存)の150号室や350号室で講義を受け, 250号室で学生実験を行い,修士では55号室(図2)で実験を行い,1986年には3階に初めてラボをもち,1期・2期工事では物理教室の移転の世話役を仰せつかるなど,思い出は尽きない。特集号の前座として,古い建物につきものの,「ちょっと不思議な話」を7つ紹介しよう。
その1:地下の中庭
旧館中央には地下1階レベルの中庭があり,そこでは「理学部長杯争奪バレーボール大会」に学生も職員も汗を流した。コート横の「小屋」には,日本で重力波探査の端緒を拓いた平川研の重力波アンテナがあり(図6),その屋根を時にバレーボールが直撃した。それから40年,平川研⇒坪野研⇒安東研と継続する中で,大型重力波アンテナ「かぐら」が神岡で建造に至ったことは,感に堪えない。
その2:消えた空中回廊
旧館2階の南西隅から,4号館・化学館の接合部に向けて,空中回廊(渡り廊下)があり(図3),地下1階でも両館はつながっていた。化学館側には遺構が見られる。重厚な旧館は階高が高く,空中回廊には傾斜がついていた。新館建造のさいは,消防法の制約で回廊が復活できていない。
その3:3階の迷宮
旧館は「ロの字」形だが,なぜか3階は,いっぽうが物理図書室,他方は素粒子物理国際施設で行き止まりになり,一周できなかった。その両者が壁一枚で背中合わせだったことは,《証言3》を拝読して初めて知り,目から鱗が落ちた。
その4:4階の増築部分
《証言4》に詳しいように,旧館は東半分のみに,不思議な4階をもっていた。ここは階高が低く,エレベータもなくて,増築されたことが一目瞭然だった(表紙)。
その5:エレベータ
旧館の最大の名物は,図7のエレベータだろう。地下の機械室(図2)では,呼びボタンが押されるたび,ごついリレーがガチャンと動き, 200Vの火花が散り,モーターがうなり,壮観である。P4の記事によれば,保存されるそうで,安堵している。
その6:電源の異常
旧館の電源系統は,謎だった。ある日,実験室で電気配線が何本か火を噴き,多くの機器が壊れた。3相200Vの端子の1つがアースであることを確かめ配線していたが,それが突然, 200Vに浮いたらしい。そんな事件が2回ほどあったが,原因は迷宮に。
その7:建設時期の謎
旧館東側では天井に配管や電線がむき出しなのに(裏表紙)北側ではそうでは無く,建設時期が異なると薄々感じていた。今回,岸田博士の捺印のある大正時代の図面が発掘され,まず東側(現在の残存部分!)が建設され,ついで残り部分が(一度か二度で)作られたと確認できた。取り壊しは,その逆順を辿っていたのだった。

図1:ありし日の旧1号館。北西面から見たところで,左端が正面玄関。右奥に7号館と4号館が見える。ケヤキの木は健在

図4:旧造幣局からもらい受けた,試作室の古い旋盤

図5:大塚さんの手による重力波アンテナ

図6:平川浩正教授(当時)と旧1号館中庭に設置された重力波検出器 (1971年撮影)。背景に理学部旧1号館の外壁や特徴的な形の窓が見える。

図7:エレベーターを地下で撮影。蛇腹型の扉。右側に駆動装置
(写真 フォワードストローク)

図8:南側会談2階から3階。背後に,特徴ある半月型の窓
(写真 フォワードストローク)

表紙:旧1号館を南西から撮影
(写真 フォワードストローク)

裏表紙上:旧1号館を東側から撮影
(写真 フォワードストローク)

裏表紙下:旧1号館2階廊下
(写真 フォワードストローク)
1923年 | 竣工。敷地は,現在の新館と旧館残存部に相当 |
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1965年 | 4階部を増築。本特集の《証言4》を参照 |
1994年 | 新館第1期工事の開始により,旧館西側1/3の退去と取壊し。旧新館西棟の建設が始まる |
1998年 | 新館西棟が竣工し,入居完了。この時のパンフレットは理学部HPに「概要」→「歴史」として掲載 |
2004年 | 新館第2期工事の開始。残った旧館西半分の移転と退去を行い,新館中央棟の建設がスタート |
2005年 | 新館中央棟が竣工し,入居を完了。旧館は東側1/3が残存し,理学部のさまざまな用途に転用される |
2013年 | 第3期工事が認可。旧館残存部の待避と取壊し |
2014年 | 新館東棟の建造開始 |
竣工は2016年3月の予定 |