
小柴昌俊先生は、1926年(大正15年)に愛知県豊橋市でお生まれになり、神奈川県横須賀市でお育ちになりました。第一高等学校を経て1951年に東京大学理学部物理学科を卒業されました。卒業後は大学院に進学されましたが、1953年米国のロチェスター大学大学院に入学され、1955年にはPhDを当大学の最短記録で取得されました。その後シカゴ大学で研究員を経て、1958年には東京大学原子核研究所の助教授として日本に戻りましたが、宇宙線の国際共同実験のために日本の代表としてシカゴ大学に再度呼ばれ、気球に原子核乾板を搭載した国際共同実験全体の責任者に選ばれました。1962年に日本に戻られてから1963年には理学部物理学科の助教授になられ、宇宙線のμ粒子の束を神岡鉱山での実験をはじめられ、このときから神岡鉱山との付き合いが始まりました。この頃、電子陽電子衝突加速器(e+e-コライダー)をシベリアのノボシビルスクで建設している有名なブドケル教授にモスクワの学会であい、この加速器での実験を共同で行うことに成りました。この実験の準備を始めて間もなくブドケル教授が倒れて計画が頓挫しましたが、ヨーロッパを回って、ドイツ電子シンクロトロン研究所(DESY)で建設されるe+e-コライダーでの実験DASPに参加することを企画しました。この実験が始まって間もなく、1974年11月に米国のブルックヘブン研究所とスタンフォード線形加速器センターでJ/ψという新粒子がほぼ同時に発見され、現在の素粒子の標準理論への方向が定まりました。DASP実験はJ/ψこそ逃しましたが、関係する新粒子を故折戸周治氏らが発見しました。これらの成果を得て、更に大きなe+e-コライダーPETRAがDESYで建設され、国際共同実験を行う為に先生は理学部附属素粒子物理国際協力施設を設立されました。この実験では強い相互作用を媒介するグルーオンを発見しました。1979年ごろからは大統一理論で予言される核子の崩壊を発見する為に神岡でのKamioka Nucleon Decay Experiment (カミオカンデ)実験の準備を始められ、1983年には実験が稼動開始しました。核子崩壊は発見できませんでしたが、1987年2月23日に17万光年のかなたの大マゼラン星雲で起きた超新星SN1987からのニュートリノを観測しました。東京大学退官の1ヶ月まえでした。「幸運は準備した者に味方する」というパスツールの言葉どおりです。この発見で1987年仁科記念賞、1988年朝日賞、1989年学士院賞、1997年藤原賞を受賞され、1988年には文化功労者になられ、1997には文化勲章が授けられました。カミオカンデ実験をさらに大きくしたSuperKamiokandeの建設のために故戸塚洋二教授をサポートし、ニュートリノ振動発見の基礎を築きました。2000年にはイスラエルのWolf賞、2002年にはノーベル物理学賞を受賞されました。その後も2003年には米国のベンジャミンフランクリンメダル、勲一等旭日大綬章、2007年にはイタリアのErice賞を受賞しました。東京大学を退官されてからは、1987年度から96年度まで東海大学理学部教授をされ、2003年には、ノーベル賞の賞金などを基に財団法人平成基礎科学財団を設立し、理事長として基礎科学の発展と若い人たちへの科学の啓蒙活動をされています。2005年には東京大学特別栄誉教授に選ばれました。小柴先生は多くの素粒子の加速器実験・宇宙線実験分野の研究者を育てられました。鋭い直観、研究に対する情熱、抜群の企画力と指導力によってわが国の当該分野の基礎を築いてきました。
(文責:素粒子物理国際研究センター・教授 駒宮 幸男)