
©東京大学大学院数理科学研究科
小平邦彦先生は,複素多様体という研究分野を創始し,その広く深い研究は代数幾何学,複素関数論,数理物理学といった分野に大きな影響を及ぼしました。先生は太平洋戦争中に研究の道に進みましたが,戦後まもない 1949 年,数学における頭脳流出第2号(1番目は角谷静夫)としてプリンストンに渡りました。以来19年にわたる在米生活の間に50篇、1400ページにおよぶ論文を執筆しました。
複素多様体とは,複素数を座標にもつ高次元の図形です。1次元複素多様体であるリーマン面の場合を除くと肉眼で見ることはできませんが,調和積分論といった解析学の手法や,層のコホモロジーといった代数的道具を使うことによって,目に見える図形に劣らず豊かな幾何学を展開することができる,というのが小平先生の偉大な発見でした。そうした発見の基礎となったのが戦争のただなかに構想され,戦後の混乱期に学位論文として提出された,調和形式の理論でした。大著の学位論文は当時紙不足だった日本で出版することができないため,米国の雑誌に投稿すべくタイプ原稿を渡米する角谷に託しましたが,これが碩学へルマン・ワイルの注目するところとなり,先生がプリンストンへ招聘される運びとなったのでした。
先生の主要業績として,小平消滅定理,複素構造の変形理論,複素曲面の分類理論などが広く知られています。小平消滅定理を中心とする一連の仕事によって,先生は1954年,日本人として初めてフィールズ賞を受賞しました。変形理論は莫逆の友人スペンサーとの共同研究で,学士院賞の授賞理由となりました。複素曲面の研究は,20世紀前半にイタリアで興った代数曲面の分類理論に強固な基礎付けを与えた上で,分類を複素曲面にまで拡張した仕事で,今日の高次元代数幾何分類理論の模範となっています。
1968年の帰国後1975年に東大を定年退官されるまで7年あまりの間に,小平先生は十数人の優秀な学生を指導しました。京都大学の永田雅宜先生の門下生たちと対比して,「小平スクール」,「永田スクール」と呼ばれます。このふたつのスクールが相まって,1970 年頃から日本は代数幾何学・複素多様体論の世界的研究センターの地位を確立したのでした。
子供のころの小平先生は体育,特に徒競争が大の苦手でしたが,数や図形に人なみはずれた興味があったということです。あるとき動物に数がわかるかどうか調べてみようと思い立ち,子犬を三匹隠したのち二匹返してみたら,母犬が安心した顔をしているので,犬には数の概念がないことを得心した,という愉快な話が伝わっています。晩年には数学教育に関心を示し,子供の発達段階に応じた教育の重要性を説きました。小学生のうちは何よりもまず国語と算数を集中して教えるべきだ,というのが先生の持論でした。
数学以外の趣味は音楽で,ピアノの名手でした。奥様と結婚なさったのも,ピアノ伴奏が機縁になったとか。一時期音程が半音低くなってしまった中古ピアノを使っていたので,初見の曲でも自由に移調して弾く特技を身につけてしまったそうです。
(文責:数理科学研究科・教授 宮岡 洋一)