2014/8/15 (配信日8/13)

インスリン作用の細胞内ビッグデータから
大規模代謝制御地図を自動的に描く方法論を確立

発表者

  • 柚木 克之 (東京大学 大学院理学系研究科生物科学専攻 助教)
  • 久保田 浩行 (東京大学 大学院理学系研究科生物科学専攻 特任准教授)
    (現所属・九州大学生体防御医学研究所トランスオミクス医学研究センター 教授)
  • 黒田 真也 (東京大学 大学院理学系研究科生物科学専攻 教授)

発表のポイント

  • 細胞内のビッグデータから大規模な多階層ネットワークを自動的に再構築する方法論を世界に先駆けて確立しました。
  • 本手法をインスリンの投与によって生じる経時的な変化(ビッグデータ)に適用し、インスリンが作用する分子のネットワークの全貌を初めて明らかにしました。
  • 本手法を用いれば、疾患別にネットワークを同定することができると期待され、これらのネットワークは疾患の検出に役立つバイオマーカーなどの探索に有用な「地図」となる可能性があります。

発表概要

細胞は、DNA、RNA、タンパク質、代謝物質といった物性の異なる分子群から構成されており、物性がよく似た分子同士を集めたグループを「オミクス階層(注1)」と呼びます。細胞が示す多彩な生命機能は、複数のオミクス階層にまたがるネットワークによって実現されています。しかし、異なるオミクス階層の間をつなぐ大規模なネットワークはこれまでほとんど明らかになっていませんでした。

東京大学大学院理学系研究科の柚木克之助教と久保田浩行特任准教授、黒田真也教授は、慶應義塾大学の曽我朋義教授、池田和貴特任助教、九州大学の中山敬一教授、松本雅記准教授、大阪大学の三木裕明教授、船戸洋佑助教らとの共同研究により、タンパク質リン酸化と代謝物質の2つのオミクス階層にまたがるネットワークを網羅的に再構築する方法論「トランスオミクス解析」を世界に先駆けて確立しました。タンパク質リン酸化と代謝物質のビッグデータは血糖値の調節に関与しているインスリンをラットの肝細胞に投与して取得しました。このビッグデータに本手法を適用して、インスリンが作用する分子のネットワーク(インスリン代謝制御ネットワーク)の全貌を初めて明らかにしました。従来は部分的な知見に基づいて推測するしかなかったインスリン代謝制御ネットワークの理解をいっそう深める成果です。

今回明らかとなったインスリン代謝制御ネットワークを細かく解析することにより、血糖値の新規な調節メカニズムが解明できる可能性があります。実際、研究チームは肝臓のみで機能する血糖値の調節に重要な経路を発見しました。また、「トランスオミクス解析」はインスリン以外にも、幅広い生命機能の背後にある多階層にまたがる分子ネットワークの解明に応用できます。ネットワークの解明は、生命機能や疾患のメカニズムを明らかにするだけでなく、それらの制御にもつながります。生命機能や疾患の制御が可能となれば、将来的には「トランスオミクス解析」を用いて再構築した病態モデルマウスの代謝制御ネットワークが、疾患の検出に役立つバイオマーカーや、薬剤の標的となる分子を探索するうえでの「地図」としての役割を果たすことも期待できます。

発表内容

図1

図1:本研究と従来型アプローチの比較。従来型の個別分子に注目する研究(左)は各オミクス階層内の網羅性に乏しく、単階層のみを対象とするシングルオミクス解析(中央)では階層間の相互作用が未知のまま残されます。これに対し本研究では、細胞を構成する複数のオミクス階層を統合する「トランスオミクス解析」(右)の方法論を確立しました。

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図2

図2:リン酸化プロテオーム階層とメタボローム階層をつなぐトランスオミクス解析の方法論。シグナルの終着点である代謝物の変動からスタートし、変動を引き起こした原因へと順次さかのぼるところに新規性があります。

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図3

図3:リン酸化プロテオーム階層とメタボローム階層をつなぐことにより得られた、インスリン代謝制御ネットワーク。変動した代謝物44個の制御因子として代謝酵素198個、責任キナーゼ13個、アロステリック調節226個が関与する大規模ネットワーク。

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① 研究の背景・先行研究における問題点

細胞は、DNA、RNA、タンパク質、代謝物質といった物性の異なる分子群から構成されており、物性がよく似た分子同士を集めたグループのことをオミクス階層と呼びます。細胞が示す多彩な生命機能は、複数のオミクス階層にまたがるネットワークによって実現されています。これまでの生物学研究では、特定の一部の分子に着目する「個別解析」や、1つのオミクス階層のみを網羅的に調べる「シングルオミクス解析」によってこのネットワークの姿に迫ろうとしてきました(図1)。しかしながら、個別解析は網羅性に乏しく、シングルオミクス解析だけでは、異なるオミクス階層の分子同士、たとえばタンパク質のリン酸化と代謝物質の変動をつなぐネットワークを明らかにすることはできません。そのため、細胞内の多階層にまたがる分子ネットワークの全貌は未だに明らかになっていませんでした。

② 研究内容

この課題を解決するため、東京大学大学院理学系研究科の柚木克之助教と久保田浩行特任准教授、黒田真也教授は、慶應義塾大学 先端生命科学研究所の曽我朋義教授、池田和貴特任助教、九州大学 生体防御医学研究所の中山敬一教授、松本雅記准教授、大阪大学 微生物病研究所の三木裕明教授、船戸洋佑助教らとの共同研究により、インスリンを投与することによって変動するタンパク質リン酸化と代謝物質の経時変化のビッグデータから、2つのオミクス階層にまたがる分子同士のネットワークを網羅的に再構築する「トランスオミクス解析」の方法論を世界に先駆けて確立しました(図1右)。

複数のオミクス階層のデータを同一条件で取得する

研究チームは、ラットの肝臓がん由来の培養細胞(Fao細胞、注2)に1時間インスリンを投与し、同一条件でメタボローム(代謝物質の網羅的データ)、リン酸化プロテオーム(タンパク質リン酸化の網羅的データ)、トランスクリプトーム(mRNAの網羅的データ)の経時変化のビッグデータを取得しました。メタボローム測定は慶應義塾大学 先端生命科学研究所の曽我朋義教授、池田和貴特任助教との、リン酸化プロテオーム測定は九州大学 生体防御医学研究所の中山敬一教授、松本雅記准教授との共同研究です。

ネットワーク再構築の方法:インスリンシグナルの流れをさかのぼる

研究チームが確立した「トランスオミクス解析」の最大の特色は、濃度が有意に変動した代謝物から出発し、その変動の根本的な原因である刺激因子へとさかのぼることで複数のオミクス階層にまたがるネットワークを再構築するところにあります。古くから行われている遺伝学の方法論に例えるならば、表現型から原因遺伝子へと遺伝情報の流れをさかのぼる考え方と類似しているとも言えます。トランスオミクス解析では、経時的に変化するメタボロームデータとリン酸化プロテオームデータを用いて、7段階の手順でネットワークを再構築しました(図2)。この再構築手法は国際・国内特許出願をしています(PCT/JP2013/080103、特願2012-256440)。

インスリン代謝制御ネットワークの全貌が初めて明らかに

トランスオミクス解析の結果明らかになった多階層にまたがるインスリン代謝制御ネットワークは、変動した代謝物44個と、これらを生成・分解する責任代謝酵素198個、これらの代謝酵素の活性をリン酸化によって制御している責任キナーゼ(リン酸化酵素)13個、代謝物によって代謝酵素の活性を調節するアロステリック調節226個が関与する大規模ネットワークであることがわかりました。この結果、従来は部分的な知見に基づいて推測するしかなかった、肝細胞におけるインスリン代謝制御ネットワークの全貌を初めて明らかにすることに成功しました(図3)。また、この結果は従来の個別分子解析によって知られていた経路以外にも多数の新規な経路を含み、インスリンシグナルが従来知られているよりもはるかに広い範囲に伝達されている可能性を示唆しています。

新規の代謝調節メカニズムを発見

再構築したインスリン代謝制御ネットワークの中から新規に同定された一部の経路に注目し、数理モデルと分子生物学実験を組み合わせて解析した結果、糖代謝において重要な役割を担う酵素、「ホスホフルクトキナーゼ」がインスリンシグナルによってリン酸化・活性化される新規の代謝調節メカニズムが明らかとなりました。この他にも、従来知られていなかった、インスリンからアミノ酸、核酸代謝などへと至る多数の新規な調節経路の存在が明らかとなりました。ホスホフルクトキナーゼのリン酸化に関する解析は、大阪大学 微生物病研究所の三木裕明教授、船戸洋佑助教らとの共同研究です。

③ 社会的意義・今後の予定など

細胞から個体へ:ネットワーク中心の創薬

研究チームが開発したトランスオミクス解析を用いて、疾患別にネットワークを明らかにできれば、生命機能や疾患メカニズムの解明だけでなくそれらの制御にもつながります。たとえば、本手法を適用して特定の疾患を患ったマウスの代謝制御ネットワークを再構築すれば、その疾患の検出に役立つバイオマーカーや、薬剤標的となる分子を探索するうえでの「地図」としての役割を果たすと期待されます。さらに、本手法は細胞、組織、個体いずれのレベルにも適用可能です。そのため、創薬初期における細胞を用いた実験から、より進んだ創薬段階における組織、個体レベルの実験まで、ネットワーク中心の合理的創薬をシームレスに実現する基礎技術となる可能性を秘めています。本手法をさまざまなレベルに適用できる特長を生かし、2型糖尿病など多因子代謝疾患の分子基盤をネットワーク再構築により明らかにする方法論を現在、開発中です。

短期から長期へ:遺伝子発現の階層を繋ぐ

1時間のインスリン投与によって、タンパク質のリン酸化や代謝物に経時的な変化は見られたものの、遺伝子発現の顕著な関与は見られませんでした。しかし、より長時間インスリンを投与した場合の作用やその他の生命現象についてトランスオミクス解析を行う際には、遺伝子発現の考慮が必要となることが予想されます。そこで、遺伝子発現を考慮したネットワークの再構築を可能にするため、現在のメタボローム、リン酸化プロテオームの2階層にトランスクリプトームおよび発現プロテオーム(タンパク質発現量の網羅的計測)を加えた4階層をつなぐ手法への拡張を進めています。

本研究は、科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業(CREST)「生命動態の理解と制御のための基盤技術の創出」(研究代表者:黒田真也)、JST戦略的創造研究推進事業(さきがけ)「生体における動的恒常性維持・変容機構の解明と制御」(研究代表者:久保田浩行)に支援を受けて行われました。

発表雑誌

雑誌名
Cell Reports(オンライン版:8月15日)
論文タイトル
Reconstruction of insulin signal flow from phosphoproteome and metabolome data
著者
柚木克之、久保田浩行、豊島有、野口怜、川田健太郎、小森靖則、宇田新介、国田勝行、富沢瑶子、船戸洋佑、
三木裕明、松本雅記、中山敬一、柏倉風純、遠藤慶子、池田和貴、曽我朋義、黒田真也
DOI
10.1016/j.celrep.2014.07.021

用語解説

(注1) オミクス階層
物性がよく似た分子を網羅的に集めたグループのこと。研究チームが主に対象としたタンパク質リン酸化および代謝物質を網羅的に集めたものはそれぞれリン酸化プロテオーム階層、メタボローム階層と呼ばれる。
(注2) Fao細胞
ラット肝がん由来の培養細胞。インスリンシグナルや代謝の研究において、肝細胞のモデルとして用いられる。