細胞は信号のばらつきを自律的に補償して情報を堅牢(ロバスト)に伝達する
発表者
- 宇田新介(東京大学 大学院理学系研究科生物化学専攻 特任助教)
- 黒田真也(東京大学 大学院理学系研究科生物化学専攻 教授)
発表のポイント
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どのような成果を出したのか
細胞の情報伝達をシャノンの情報理論を用いて解析したところ、信号がばらついても情報が堅牢に伝えられることを見出しました。その仕組みの一つに、補償性がありました。 -
新規性(何が新しいのか)
細胞は外乱に対しても、自律的に補償して情報量を堅牢に保って伝達できるしくみを持っていることを世界で初めて見出しました。 -
社会的意義/将来の展望
今後堅牢性を生み出すしくみを解明して、薬剤の作用を効率的にコントロールしたり、生命のもつしなやかな通信システムの原理を人工通信システムへ応用します。
発表概要
細胞は分子を介して成長因子の情報を細胞内部へと伝達して細胞の分化などを制御していますが、細胞ごとの分子数のばらつきのもとで、具体的にどれぐらいの情報量をどのように伝達しているのかについては、ほとんど不明でした。東京大学大学院理学系研究科の宇田新介 特任助教と黒田真也 教授は、細胞が伝達している情報量をシャノンの情報理論(注1)の概念を用いて解析して、細胞の情報伝達が堅牢(注2)であることを世界で初めて見出しました。本研究チームは、これまでに細胞の信号を一細胞レベルで定量的かつ大規模に測定する手法を開発しており、今回この手法を用いて細胞が伝達している情報量をシャノンの情報理論に基づき計算したところ、成長因子から細胞内部に伝達されている情報量が約1ビットであることを見出しました。1ビットは2つの状態を区別できる情報量であり、例えば細胞が分化する・しないという情報量は1ビットに相当します。さらに、細胞にさまざまな分子の阻害剤を加えたところ、信号強度は下がるものの情報量は保たれることがわかりました。一般に多くの場合、信号強度のみが下がればそれに伴い情報量も減少しますが、本研究で明らかにした事例において情報量が減少しないという事実は細胞が阻害剤による摂動に対して情報を自律的に堅牢に伝える仕組みを持っていることを示しています。情報を堅牢に伝達する仕組みのひとつとして、阻害剤によりある経路が阻害されても、阻害されていない経路が情報量を補償して合計の情報量を保つことがわかりました。これらの結果から、細胞は外乱に対しても、自律的に補償して堅牢に同じ情報量を受け取れる仕組みを持っていることがわかりました。この堅牢性と補償性は細胞が持つしなやかな情報伝達の仕組みをはじめて明らかにしたものです。
将来的には堅牢性を生み出す情報伝達の仕組みを解明して、情報理論を用いて薬剤の作用をより効率的にコントロールしたり、生命のもつしなやかな通信システムの原理を人工通信システムへ応用したりすることが可能となります。
発表内容
①研究の背景・先行研究における問題点
細胞が生き延びる組織の一部としてうまく機能していくためには、細胞外部の様々な環境変化に適応したり、細胞どうしで協調したりする必要があります。そのためには、細胞は外部環境や他の細胞についての情報を持つ必要があります。細胞は、そのような情報を、主にシグナル伝達(注3)と呼ばれるタンパク質による生化学反応からなるネットワーク(図1)を用いて伝達しているのですが、今までのシグナル伝達の研究では、「ネットワークを構成する生化学的な分子は何か?」という問いをテーマとしたものがほとんどでした。しかし、分子全てが明らかになっても細胞がどのくらいの情報量をどのように伝達しているのかは依然不明です。これを解析するためには細胞内の分子の信号を定量的に大量に測定できる計測手法の開発が必要でしたが、東京大学大学院理学系研究科の宇田新介 特任助教と黒田真也 教授らの研究グループは、先行研究としてQIC(Quantitative Image Cytometry)と呼ばれる定量的大量計測手法の開発に成功しました(尾崎ら、PLoS ONE, 2010)。今回そのQICを用いて「細胞がどのくらいの情報量をどのように伝達しているのか?」という問いに答えるために、シャノンの情報理論を用いて細胞が伝達している情報量を調べることにしました。シャノンの情報理論は、携帯電話やインターネットにおける情報伝達などにおいても、理論的な解析に用いられています(図2)。
②研究内容
細胞が伝達する情報量をどのように測るのか?
シャノンの情報理論を用いれば、信号の送り手と受け手の間で伝達される情報量は、相互情報量(注4)という尺度を用いて表すことができます。情報量は、情報を2進数で表記したときの長さで測られることが一般的で、単位にはビットが使われています。宇田特任助教と黒田教授らの研究グループは、シャノンによって定義された相互情報量を用いて、細胞のシグナル伝達において伝達される情報量を調べることにしました。
細胞の情報量を測るのに必要なデータは?
相互情報量を調べるには、大量の細胞のシグナルの強さを1細胞ずつ正確に測定する必要がありますが、従来の測定方法では、そのような測定は困難でした。しかし、研究グループは、定量的免疫染色法という方法を開発し、自動化装置と画像処理技術の併用により、大量の細胞からのシグナルの強さを1細胞ずつ正確に測定することを可能にしました(図3)。その結果、細胞のシグナル伝達における相互情報量を、実際に調べることができるようになりました。
細胞はどれぐらいの情報量をどのように伝達していたのか?
研究グループは、細胞の運命決定機構のモデル細胞としてよく用いられるPC12細胞を用いて、細胞分化を誘導する成長因子としてNGF(nerve growth factor)やPACAP(pituitary adenylate cyclase-activating peptide)、薬理刺激物質であるPMA(phorbol 12-myristate 13-acetate)からなる合計3種類の刺激をそれぞれ用いて、早期応答遺伝子(IEG)産物(c-FOSとEGR1(early growth response protein 1))への情報伝達を調べました(図1)。その結果、伝達される情報量はいずれの場合も刺激の種類によらず平均的に約1ビットであることがわかりました。しかし、成長因子と早期応答遺伝子産物までの経路には、ERK(extracellular signal-regulated kinase)分子やCREB(3'-5'-cyclic adenosine monophosphate response element-binding protein)分子があることが以前より知られており、伝達される情報量が同じであっても、情報伝達を担う経路には様々な経路が考えられます。研究グループが、伝達される情報量を経路ごとの寄与に分ける方法を考え、経路ごとの寄与を調べた結果、早期応答遺伝子産物まで伝達される情報量が刺激の種類によらず同じ1ビット程度であっても、刺激の種類によって主に情報を伝達している分子がそれぞれ、ERK分子、CREB分子、それら以外の分子と異なることがわかりました(図4)。
細胞の情報伝達は阻害などの外乱があるとどうなるのか?
刺激の種類によって情報伝達の経路が異なった結果を踏まえ、研究グループは、情報伝達の経路に阻害剤を与えた条件下で、情報伝達がどのような影響を受けるのかを調べました。用いた阻害剤は3種類で、それぞれERK分子、CREB分子、それら以外の分子の上流を阻害するものです。いずれの阻害剤によっても分子の信号強度は減少しましたが、早期応答遺伝子産物へと伝達される情報量は1ビットに保たれていました。一般に多くの場合、信号強度のみが下がればそれに伴い情報量も減少しますが、信号強度の減少にもかかわらず情報量が1ビットに保たれることは、細胞のシグナル伝達における情報伝達が堅牢となる仕組みを有していることを示しています。このことは、細胞の情報伝達が外乱などの環境変化があっても堅牢に情報伝達を行えることを意味します。また、情報伝達が堅牢となる仕組みとして、阻害剤によりある経路が阻害されても阻害されていない経路が情報量を増やして合計の情報量を補償することがわかりました。例えば、ERK分子の上流を阻害した場合、ERK分子が早期応答遺伝子産物へと伝達する情報量は減少しますが、一方でCREB分子など他の分子によって伝達される情報量が増加するということによって情報量を一定に保っていることがわかりました(図5)。
NGFの刺激によって、細胞は神経細胞へと分化することが既に知られており、分化に伴い神経突起を伸ばします。このことは、NGFの刺激が細胞を分化へと誘導する情報を持っているとみなせます。研究グループはNGFの刺激から突起の伸長までの情報伝達を調べた結果、同様に、情報伝達が堅牢に行われていることがわかりました。
③社会的意義・今後の予定 など
医薬への波及効果
細胞には情報を堅牢に伝達する仕組みがあることがわかりました。当然のことですが、堅牢性は正しい情報の伝達には好ましい性質ですが、誤った情報が伝達する場合には堅牢性は好ましくありません。例えば、がん細胞においては、増殖に関する信号が異常に亢進することが知られていますが、そのような間違った情報伝達を阻害するために薬剤を投与するなどの措置は十分考えられる対処方法です。その場合、薬剤によって異常な信号を弱めることができても、誤った情報の伝達が堅牢であれば、細胞を正しい制御に戻す効果はほとんどないということも考えられます。また、逆に、誤った情報伝達において堅牢性の低い箇所を見つけることができれば、少ない薬剤で大きな効果を得ることも考えられます。このことから、情報伝達における堅牢性などの性質を考慮した上で、薬剤の効果を検証することが必要になってきます。このように、本研究の情報伝達を調べる方法は、さまざまな細胞種やシグナル伝達の系に適用することで、効率的な薬剤の投与やターゲットを見つけることに役立つことが期待されます。
人工通信システムへの波及効果
生物特有の自律的な補償の概念を人工の通信システムに応用することで、しなやかさを持った堅牢な通信システムを構築することも考えられます。例えば、インターネットの通信網などは、現在でも一部の経路が断絶しても代替経路を用いて情報伝達を行える仕組みになっていますが、本研究で明らかにした生物特有の自律的な補償機構を既存の通信システムに応用することで、通信システムの堅牢性などの改善が見込まれることも考えられます。
今後
本研究の結果から、細胞が堅牢に情報伝達を行うことがわかりました。堅牢に情報伝達を行う仕組みに、経路による補償があることがわかりました。しかしながら、補償がなされる詳細な仕組みはまだあまりよくわからない部分が多いのも事実です。よって、研究グループは、補償がなされる詳細な仕組みを数理的に解き明かすことに、現在取り組んでいます。
発表雑誌
- 出版社
- AAAS(アメリカ科学振興協会), 雑誌名:Science (サイエンス), 2013年8月2日号
- 論文タイトル
- "Robustness and compensation of information transmission of signaling pathways"
(シグナル伝達系における摂動に対する情報伝達の堅牢性と補償性) - 著者名・所属
- 宇田新介1,斎藤健1,工藤隆将1,小鍛冶俊也2,土屋 貴穂1,久保田浩行1,小森靖則1,尾崎裕一1,黒田真也1,2,3
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- 東京大学理学系研究科生物化学専攻
- 東京大学新領域創成科学研究科情報生命科学専攻
- CREST, Japan.
- DOI番号
- 10.1126/science.1234511
用語解説
- 注1 シャノンの情報理論
- クロード・シャノンによって提唱された情報・通信を数学的に取り扱うことを可能にした理論体系であり、符号理論や通信理論、統計科学、機械学習、システム工学など非常に広い範囲への理論的応用がなされている。↑
- 注2 堅牢性(ロバストネス)
- 外乱やノイズなどの予期せぬ入力や変化が生じても、安定して本来の状態を保てる性質を指す。↑
- 注3 シグナル伝達(Signal transduction)
- 細胞外のホルモンや成長因子、栄養などの環境変化の情報は受容体などを介して細胞内に伝わっていき、最終的に細胞の応答を導く。細胞内に情報を伝える経路はシグナル伝達経路と呼ばれ、一般に多数の分子からなる連鎖的な生化学反応によって構成されている。↑
- 注4 相互情報量(Mutual information)
- 一般には2つの確率変数の依存性を表す指標であり、情報伝達の文脈では、受け手と送り手の間で平均的に伝達可能な情報量である。多くの場合、情報量は2進数表記したときの記号長に換算して計られ、単位にはビットが用いられる。↑