2013/7/26 (配信日7/25)

あの味をもう一度

— 線虫の味覚記憶の発見とその仕組みの解明 —

発表者

  • 國友博文(東京大学大学院 理学系研究科 生物化学専攻 助教)
  • 飯野雄一(東京大学大学院 理学系研究科 生物化学専攻 教授)

発表のポイント

  • 過去の記憶をたよりに、動物が生存に有利な環境を探す仕組みが明らかに。
  • 線虫が味覚を記憶することが明らかになったのは、40年ほどの研究の歴史で初めて。
  • 記憶と学習の仕組みを高等生物で理解するためにも役立つと期待される。

発表概要

以前にいい思いをしたことが忘れられず、またそれを期待することを「味を占める」と言います。味を占めるためには、その旨味を覚えておき、同じことが起きるように自ら行動しなければなりません。脳が過去に経験した環境の条件を記憶し、現在の状況をその記憶と照らし合わせて、最も望ましい結果が得られるように行動を制御する仕組みは、これまで良くわかっていませんでした。

今回、東京大学大学院 理学系研究科の國友博文 助教、飯野雄一 教授らの研究グループは、線虫(注1)が飼育された塩の濃度を記憶し、それと同じ環境を求めて移動することを見出しました。そして一連の行動が、たった一個の味覚神経細胞の働きによって調節されていることを明らかにしました。

少数の神経細胞からなる単純な神経系を使って、線虫が意外にも高度な学習能力を持つことがわかりました。記憶は脳のどこに作られ、どのように行動を変化させるのか。本研究の成果は、生物に広く見られる同様な現象を理解するための基礎的な知見となり、記憶と学習の仕組みを解明するためにも役立つと期待されます。

発表内容

図1

図1:塩に対する線虫の走性。餌を得ていた塩の濃度に向かい、空腹を経験した塩の濃度を避けるように移動する。

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図2

図2:線虫の頭部にある味覚神経(黄色)。写真右側にある楕円形の細胞体から左側の口先に向けて、神経突起が伸びている。白線は10マイクロメートル。

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図3

図3:塩濃度の記憶により行動が変化する仕組み。はじめに、線虫は塩濃度の低い方へ移動していたとする。記憶されている(好ましい)塩の濃度よりも現在の濃度が低い場合にのみ、味覚神経の応答が介在神経へと伝達され、進行方向が修正される。

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動物は、生存に適した環境を求めて移動する能力を持っています。とくに餌を探し出す行動と繁殖行動は、種の存続に直接関わることから、下等な生物にもそれらの成功率を高めるための巧妙な仕組みが備わっています。線虫C. エレガンスは体長1 mmほどの生物で、自然界では、土壌中の腐敗物につくバクテリアなどを餌として生活しています。1970年代に神経科学研究の優れた実験動物として認知されて以来(注2)、多くの研究者の手によって、神経細胞が情報を伝える仕組みや、神経回路が運動を制御する仕組みが、線虫を用いて明らかにされてきました。これらの研究の中で、化学走性(注3)は、感覚器が餌などの情報を感知し、神経回路がその情報を処理して適切に行動する一連の過程を研究するために適した行動として、頻繁に用いられてきました。

低濃度の塩は、ほ乳類を含む多くの生物にとって生存に必須で、好ましい刺激だと考えられています。線虫にとっても、それは、誘引性の(線虫を引き付ける)刺激であると思われてきました(注4)。ところが今回、國友博文 助教、飯野雄一 教授らの研究グループは、マシンビジョン(注5)を用いて線虫の行動を詳細に観察することにより、塩に対する走性は過去に経験した塩の濃度の記憶に基づいており、餌を得ていた濃度を好み、餌を得られない、空腹を経験した濃度を避けるように行動していることを見出しました。すなわち、低い塩濃度で餌を食べていた線虫は低い塩濃度を好み、高い塩濃度で餌を食べていた線虫は高い塩濃度を好みます(図1)。飼育の途中で濃度を変えると、数時間で新しい環境を記憶しました。個々の神経細胞を破壊する実験から、これらの行動はたった一つの味覚神経からの入力で制御されており(図2)、その細胞で働くジアシルグリセロール(注6)シグナル伝達経路が塩濃度の好みを決めていることが明らかになりました。さらに、ライブイメージング(注7)や神経を人為的に活性化する実験から、経験に依存して異なる行動を示す原因の一つは、記憶された塩濃度と現在の塩濃度の差によって、味覚神経から下流の神経への情報伝達が変化するためであるとわかりました(図3)。

記憶に基づく行動は、高等生物では、複雑な脳の働きによって作り出されると考えられています。ところが、記憶は脳のどこに作られ、その記憶により行動がどのように調節されるのか、詳細は良くわかっていません。今回の研究成果は、動物に広く見られる同様な現象を理解するための基礎的な知見となり、記憶や学習の仕組みの解明に寄与すると期待されます。また線虫は、農作物に大きな被害を与える害虫としても知られています。その行動様式の解明は、農作物の被害を食い止める技術開発にもつながる可能性があります。

なお、本研究の一部は、JST 戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)の研究課題名「神経系まるごとの観測データに基づく神経回路の動作特性の解明」(研究代表者:飯野 雄一)の一環として得られました。

発表雑誌

雑誌名
Nature Communications (2013年7月26日 掲載)
論文タイトル
Concentration memory-dependent synaptic plasticity of a taste circuit regulates salt concentration chemotaxis in Caenorhabditis elegans.
著者
Kunitomo H, Sato H, Iwata R, Satoh Y, Ohno H, Yamada K, and Iino Y.
DOI番号
10.1038/ncomms3210
アブストラクトURL
http://www.nature.com/naturecommunications

用語解説

注1
土壌にすむ非寄生性の線形動物、学名は Caenorhabditis elegans.
注2
発生生物学・神経科学の研究に適した実験動物として、シドニー・ブレナー(Sydney Brenner、2002年ノーベル医学生理学賞受賞)が培養法などを確立しました。
注3
匂いや味など、低分子の化学物質に対して誘引または忌避を示す行動。
注4
線虫が塩に誘引されることは、1973年にサムエル・ワード(Samuel Ward)によって初めて報告されました。
注5
発表者らが以前に開発した、画像処理によって線虫の運動を詳細に分析する装置。
注6
1分子のグリセリンに2分子の脂肪酸がエステル結合した化合物で、細胞内のシグナル伝達分子として働きます。
注7
線虫に塩の刺激を与えて、顕微鏡で神経細胞の活動をリアルタイムに観察する実験手法。