高強度超短パルスレーザー場中の電子散乱現象を世界で初めて観測
発表者
- 山内 薫(東京大学大学院理学系研究科化学専攻 教授)
- 歸家 令果(東京大学大学院理学系研究科化学専攻 助教)
発表概要
レーザーアシステッド電子散乱(LAES)と呼ばれるレーザー場中特有の原子による電子の散乱現象を、世界で初めて高強度超短パルスレーザーを用いて観測した。 これは強レーザー場で生成する光ドレスト状態(注1)(光と物質が混ざった状態)の直接観測に繋がる成果である。 さらに、このLAES過程を分子の電子散乱に応用し、フェムト秒(10-15秒)の時間分解能で分子の幾何学的構造を精密に決定できる手法を提案した。
発表内容
高強度超短パルスレーザー場中のLAES過程の初観測
背景
レーザー場中での原子による電子散乱過程では、電子のエネルギーが散乱を通じてレーザー光の光子エネルギーの整数倍だけ変化する、レーザーアシステッド電子散乱(LAES)と呼ばれる現象が誘起される。 これまでは炭酸ガスレーザーを用いてLAESの観測実験が行われてきたが、LAES過程における原子とレーザー場との相互作用の効果は無視できるほどに小さかった。 一方、レーザー光強度が大きく、原子とレーザー場との相互作用が無視できない場合、光と原子が混ざった状態である光ドレスト状態(注1)が形成され、LAES信号の散乱角度分布に特徴的なピーク構造が現れることが理論的に予測されている(図1)。 これは、LAES実験が高強度レーザー場中での光ドレスト状態を直接観測できる有用な手法であることを示している。 しかしながら、1976年に報告されたLAES過程の初観測以来30年以上もの間、このような高強度レーザー場でのLAES実験は、その困難さのために実現されていなかった。
成果
そこで本研究では、長年の課題であった強レーザー場領域でのLAES実験の実現を目指して、高感度のLAES観測装置を開発し、高強度フェムト秒パルスレーザー場におけるLAES過程の観測に世界で初めて成功した。
LAES観測装置の開発
開発した実験装置の概略図を図2に示す。 装置は電子線源、試料ガス導入部、電子エネルギー分析器、散乱電子の検出器で構成されている。 電子線源で生成された電子パルスは試料ガス導入部でキセノンガスと衝突する。 散乱点には衝突と同時に高強度の超短レーザーパルスが照射される。 散乱電子は電子エネルギー分析器によってエネルギーと散乱角が分析され、散乱電子検出器によって観測される。 本実験では、ファラデーカップを分析器前に設置し、非散乱電子や小角散乱電子を遮断するため、散乱角の大きな領域の散乱電子(図1の青色領域に対応)が検出される。
結果
観測された散乱電子のエネルギースペクトルを図3(a)に示す。 赤丸はレーザー場中での散乱電子のスペクトル、黒丸は背景信号のスペクトルである。 レーザー場中での散乱電子のスペクトルでは、一光子分エネルギーが増減したところで信号強度が増加している。 図3(b)の赤丸はレーザー場中の散乱信号から背景信号を差し引いたスペクトルである。 一光子分エネルギーシフトした位置においてLAES過程に由来する明確なピーク構造が現れている。 さらに、LAES信号のレーザー偏光依存性や散乱角度分布の測定にも成功した。 これらの実験結果は数値シミュレーションの結果とも良い一致を示しており、観測された信号がLAES過程に由来することが裏付けられた。
波及効果
今回のレーザー場条件(波長800 nm、光強度1.8×1012 W/cm2)は、試料ガスであるキセノンが光ドレスト状態を形成するのに十分な強度であり、本研究は光ドレスト状態を散乱電子のエネルギースペクトルによって観測できることを示した、世界で初めての実験成果である。 高強度超短パルスレーザーによって生成される光ドレスト状態は、強レーザー場中の原子・分子ダイナミクスを決定づける重要な役割を担っているにも関わらず、その状態を観測することはこれまで不可能であった。 今後、LAES実験によって光ドレスト状態の特性が明らかになると期待される。
超高速時間分解電子回折法の提案
背景
気体電子回折法(注2)は、気体分子の幾何学的構造を精密に決定するための伝統的な実験手法である。 一方、気体分子の幾何学的構造の時間変化を追跡するために時間分解気体電子回折法が近年導入された。 この時間分解気体電子回折法には大きく分けて、パルス電子回折法(注3)と光電子回折法(注4)があるが、パルス電子回折法は空間分解能が高い一方、時間分解能が十分でないという問題点があり、光電子回折法は高い時間分解能を持ち得るが、空間分解能が低いという問題点があった。 そのため、時々刻々変化する分子構造を、スナップショットの連続写真として撮影するためには、十分に高い時間分解能と十分に高い空間分解能を併せ持つ新しい気体電子回折法の登場が必要であった。
成果
本研究では、フェムト秒レーザーによるLAES過程を分子に適用すると、フェムト秒の時間分解能で気体分子の分子構造を決定できることを世界で初めて提案した。 図4に示すように、分子に対するLAES信号の散乱角度分布には、通常の気体電子回折法と同様に分子の幾何学的構造に依存した回折パターンが現れる。 LAES過程はレーザー光が存在する時にのみ起こる現象であるため、LAES信号の回折パターンから導き出された分子の幾何学的構造は、レーザーパルスの時間内での瞬間的な幾何学的構造である。 つまり、分子に対するLAES実験はレーザーパルスの時間幅という極限的に高い時間分解能をもつ気体電子回折法である。 この時間分解能には原理的な限界は存在せず、フェムト秒パルスを用いればフェムト秒の、アト秒(10-18秒)パルスを用いればアト秒の時間分解能が達成される。 また、通常の気体電子回折法と同様に、この手法から導き出される分子の幾何学的構造の精度は±0.01 Å に達する。 この手法の有用性を具体的に実証するために、塩素分子を対象とした数値シミュレーションを実施した。 数値シミュレーションから得られたLAES信号の散乱角度分布に対して、通常の気体電子回折法と同様の解析を行うことにより、瞬間的な分子の幾何学的構造が高い精度で導かれることが示された。
波及効果
本研究で提案された気体電子回折法は、従来の気体電子回折法とは異なる全く新しい手法であり、フェムト秒(さらにはアト秒)の時間分解能と±0.01 Å の空間分解能を同時に備えた「分子の幾何学的構造の時間的変化を測定するための究極の実験手法」である。 本手法が実現されれば、「化学反応が進行しているときに、反応に関わる分子や、反応の遷移状態の幾何学的構造が、時々刻々変化する様を、連続写真として撮影する」という化学者の夢が現実のものとなる。
この研究成果のもととなった研究経費
- 科学研究費補助金(文部科学省)特別推進研究19002006
- 科学研究費補助金(日本学術振興会)若手研究(B)19750003
- 東京大学グローバルCOEプログラム(日本学術振興会)理工連携による化学イノベーション
- 科学技術振興調整費(文部科学省)先端融合領域イノベーション創出拠点の形成プログラム
発表雑誌
米国物理学会 フィジカルレビューレターズ誌 2010年9月17日号に掲載(オンライン掲載 9月13日)
用語解説
- 注1: 光ドレスト状態
- 光と物質の相互作用が大きい場合、光と物質を個別に考えるのではなく、光と物質が相互作用を通して混合した状態として考えるほうが物理現象の本質を掴みやすい。この光と物質の混合状態を光ドレスト状態と呼ぶ。特に、高強度超短パルスレーザー場中で引き起こされる様々な原子・分子のダイナミクスは、光ドレスト状態の形成という描像によって効果的に理解されてきた。しかし、この光ドレスト状態はレーザー場中でのみ存在する超短寿命状態であるため、特殊な例を除いて実験的に直接検出することは不可能であった。 ↑
- 注2: 気体電子回折法
- 気体分子に高エネルギー(102-103 keV)の電子線を入射すると、電子の波動性のために散乱電子の角度分布に回折パターンが現れる。この回折パターンが分子の核間距離に依存することを利用して分子の幾何学的構造を測定する手法を気体電子回折法と呼ぶ。通常、±0.01 Å 程度の高精度で分子の幾何学的構造を測定することが可能である。古くから分子の静的な幾何学的構造の測定に用いられており、気体分子の精密な幾何学的構造決定においては最も有力な手法として確立している。 ↑
- 注3: パルス電子回折法
- 入射電子線を超短パルス化して電子回折実験を行うことにより、分子の瞬間的な幾何学的構造を測定する手法。通常の電子回折法と同様に高い空間分解能が得られる。薄膜試料に対しては数百フェムト秒の時間分解能が達成されているが、気体試料に対する時間分解能は千フェムト秒程度が限界だと考えられている。この時間分解能では、一般に10フェムト秒から100フェムト秒程度の時間スケールで変化する分子の幾何学的構造を精密に測定することはできない。 ↑
- 注4: 光電子回折法
- 対象となる分子を光イオン化し、生成した光電子の角度分布に現れる回折パターンから分子の幾何学的構造を測定する方法。時間分解能は光パルスの時間幅で決定される(手法によっては、光の周期よりも短い時間分解能を達成できる場合もある)。通常の電子回折法で用いられる入射電子線のド・ブロイ波長と比べて、光電子のド・ブロイ波長は長く、また、分子の幾何学的構造の導出過程には多くの仮定や補足情報が必要となるため、分子の幾何学的構造を高精度で導出することは難しい。 ↑