2010/7/28

細胞内シグナル伝達経路の信号処理特性を解明

- 薬剤が意図したものと逆の応答を引き起こし得るメカニズムを解明 -

発表者

  • 藤田一広(東京大学新領域創成科学研究科情報生命科学専攻 博士課程3年)
  • 豊島 有(東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻 博士課程2年)
  • 黒田 真也(東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻 教授)

発表概要

細胞の成長を制御するAkt経路におけるシグナル(信号)の伝わり方を計測したところ、強い一過性のシグナルよりも弱い持続性のシグナルの方が下流に効率的に伝わる現象を発見した。 コンピュータシミュレーションと実験を組み合わせて解析した結果、この直感に反する現象はAkt経路のローパスフィルタ(低周波通過フィルタ)(注1)特性によって生じていることが明らかになった。 またこの特性によって、ある種の薬剤を投与した場合に、意図した作用とは逆に下流の応答が増加することが分かった。

発表内容

図1

図1:拡大画像

図2

図2:拡大画像

図3

図3:拡大画像

これまでの研究でわかっていた点

細胞外のホルモンや成長因子、栄養などの環境変化の情報は受容体などを介して細胞内に伝わっていき、最終的に細胞の応答を導く。 細胞内に情報を伝える経路はシグナル伝達(注2)経路と呼ばれ、一般に多数の分子からなる連鎖的な生化学反応によって構成されている。 本研究の対象であるAkt経路はシグナル伝達経路の一つで、細胞の成長を制御することが知られており、この経路の異常がガンの原因になることは分かっていた。

近年の分子生物学の進展により、Akt経路を構成する分子やそれらの相互作用についての知見は蓄積されてきた。 しかし、経路に伝わるシグナルのダイナミクスやその特性、具体的には分子活性の時間パターンの伝搬とその制御機構についてのシステム生物学(注3)的な解析は進んでいない。 そのため、一般に分子や遺伝子のシグナルの最大強度が下流に情報を伝えていると直感的に理解されてきた。

この研究が新しく明らかにしようとした点

従来の生命科学の分野では、刺激が強い時は強い応答が、弱ければ弱い応答が引き起こされると直感的に理解されている。 今回我々は弱い刺激であっても持続する場合に、強い刺激であっても一過性である場合より、強い応答を引き起こす逆転現象をAkt経路の分子活性の計測時に発見した。 そこでこの直感的には理解出来ない現象の背後にあるメカニズムを解明するために、実験結果を再現するシミュレーションモデルを作成し、Akt経路の信号処理特性を解析した。

ラジオ回路とシグナル伝達経路におけるシグナル(信号)の入出力関係を対比することで、シグナル伝達経路の信号処理特性を理解する枠組みを説明したい(図1)。 原始的なラジオ回路は、電波の中からラジオ局の周波数の信号を取り出す回路(コンデンサーとコイル)とラジオ局の周波数の信号から音声シグナルを取り出す素子(ダイオード検波器)、音声を出力するイヤフォンからなる。 ラジオの信号処理を理解するために回路を構成する個々の素子の特性を知ることは非常に重要であるが、回路に流れる信号の伝わり方を知らなければ、特定の周波数に載った信号だけを抽出して音を出力するというラジオの動作原理は理解できない。 生物学においては、経路を構成する分子の特徴や分子間相互作用は個別に調べられてきたが、経路に流れるシグナルの伝わり方はあまり調べられていないのが現状である。 そのため、シグナル伝達経路が、細胞の外部環境の変化に由来するシグナルをどのように処理して細胞の応答を導くのかは不明である。 本研究はこの動作原理を明らかにするために、実験結果を再現するシミュレーションモデルを作成し、Akt経路の信号処理特性を解析した。

そのために新しく開発した方法、機材等

Akt経路の信号処理特性を解析するために、通信工学などの分野で使われている周波数応答解析を応用して、Akt経路の特性を解析した。 具体的にはまず、実験によってダイナミクスを計測し、実験結果を再現するシミュレーションモデルを作成した。 その後シミュレーションで得られる分子活性の時間パターンをフーリエ変換によってサイン波に分解し、周波数ごとの振幅の強度を得た(振幅スペクトル)。 下流の振幅スペクトルを上流の振幅スペクトルで割ることで、周波数ごとのシグナルの伝達効率を求めたのである。(図2)

この研究で得られた結果、知見

シグナル強度の逆転

我々はPC12細胞に上皮成長因子(EGF)を様々な時間パターンで投与し、上皮成長因子受容体(EGFR)からAkt を介して下流のS6まで伝わるシグナル伝達経路のダイナミクスとその特性を調べた。 そしてEGFRの強い一過的な活性化よりも弱い持続的な活性化の方がS6の強い応答を引き起こし、上流と下流でシグナルの強度が逆転していることを発見した。

ローパスフィルタ特性

この直感に反する挙動を理解するため、我々は実験で観察されたダイナミクスを再現するシミュレーションモデルを作成し、工学でよく使われる周波数応答解析を応用して、Akt経路の特性を解析した。 その結果、Akt経路がローパスフィルタ(低周波成分をよく通す) という信号処理特性を示すことを発見した。 上流の強い一過的なシグナルは主に高周波成分、弱い持続的なシグナルは主に低周波成分で構成されているため、ローパスフィルタ特性によって弱い持続的なシグナルが選択的に下流へ伝えられてS6の強い応答を引き起こし、シグナルの強度の逆転が起きていた(図3)。

抗がん剤投与時にもシグナル強度が逆転

また我々はAkt経路のローパスフィルタ特性によって、ある種の抗癌剤(EGFR阻害薬) を投与した場合に投与しない場合よりもS6の応答が増加することを予測した。 この予測を実験により確認し、EGFR阻害薬の作用を組み入れたモデルによって特徴を再現した。

研究の波及効果

  • 従来の生命科学におけるシグナルの伝わり方の直感的理解を覆すものである。
  • 今回発見したローパスフィルタ特性は一般的な生化学反応において観察されうる特徴なので、薬剤の効果や遺伝子の働きの解釈に一石を投じる。具体的にはシグナルの時間パターンを観察せずに、ピークの値の大小関係だけで下流の応答を解釈してしまうことの危険性をこの研究は示唆している。

今後の課題

  • 今回開発した解析手法を様々な生命現象に適応し、生命現象の仕組みの理解とその制御に役立てたい。
  • より精緻なシミュレーションモデルを作れば、薬剤の効果や副作用についても正確に予測できるようになるかもしれない。

論文の参照情報

この研究成果のもととなった研究経費
JST 戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)研究領域「生命システムの動作原理と基盤技術」
研究課題「シグナル伝達機構の情報コーディング」

発表雑誌

出版社
アメリカ科学振興協会(AAAS)、雑誌名:Science Signaling(サイエンス・シグナリング)、2010年7月27日号
論文タイトル
“Decoupling of receptor and downstream signals in Akt pathway by its low-pass filter characteristics”
(Akt経路のローパスフィルタ特性による受容体と下流の信号強度の逆転)
著者名・所属
藤田一広1、豊島有2、宇田新介2、尾崎裕一2、久保田浩行2、黒田真也2
1:東京大学大学院新領域創成科学研究科情報生命科学専攻
2:東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻

用語解説

注1 ローパスフィルタ(低周波通過フィルタ、Low-pass filter)
高周波成分はあまり通さず、低周波成分を効率よく通すフィルタのこと。低周波通過フィルタとも呼ぶ。 
注2 シグナル伝達(Signal transduction)
細胞外のホルモンや成長因子、栄養などの環境変化の情報は受容体などを介して細胞内に伝わっていき、最終的に細胞の応答を導く。細胞内に情報を伝える経路はシグナル伝達経路と呼ばれ、一般に多数の分子からなる連鎖的な生化学反応によって構成されている。 
注3 システム生物学(Systems Biology)
生命現象をシステムとして理解することを目的とした生物学の一分野。