アルツハイマー関連タンパク質が記憶に果たす役割を解明
発表者
- 飯野 雄一(東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻 教授)
- 池田 大祐(東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻 博士課程大学院生)
概要
カルシンテニンと呼ばれる遺伝子が、ヒトの記憶力と相関していることが報告されていたが、記憶を制御することの明確な証拠はなかった。今回、線虫のカルシンテニンであるCASY-1(ケイシー・ワン)を調べることにより、このたんぱく質が学習・記憶に必須であることを見出し、その働き方を明らかにした。
発表内容

図1:食塩(NaCl)が嫌いになる学習
餌のあるところで飼育された線虫は食塩に寄っていくが、お腹が空いた状態で食塩を経験すると、塩が嫌いになる。ところが、CASY-1変異体はそのような経験をしても相変わらず餌に寄っていく。

図2:線虫カルシンテニン、CASY-1の働き
感覚神経で作られたCASY-1は、はさみたんぱく質により切断され、神経細胞から放出される。切断断片は、その感覚神経自身、あるいは近くの細胞に働きかけることで、学習を調節する。
カルシンテニン(アルカデインとも呼ばれる)は、脳など中枢神経系に多く含まれているたんぱく質である。このたんぱく質は、脳内でアルツハイマー原因物質の前駆たんぱく質であるAPP(エー・ピー・ピー)と、間接的に結合することが報告されている。APPはハサミたんぱく質により切断を受け、その切断断片の一部がアルツハイマー病の直接の原因といわれる老人斑(注1)の主要な構成因子となる。APPと同様に、カルシンテニンもハサミたんぱく質により切断されるが、その切断断片が生体内でどのような役割を果たすのか、これまで知られていなかった。さらにこれらの知見とは独立に、カルシンテニンの多型(注2)がヒト健常者の記憶力と相関しているという知見も報告されているが、カルシンテニンが学習・記憶に関与するという確かな証拠はこれまで存在していなかった。
今回発表する研究では、線虫という小動物を用いることにより、この生物のカルシンテニンが学習に必須の役割をすることが明確になり、どのように働くか、メカニズムが一部明らかになった。
ヒトや哺乳類の脳は非常に多くの神経からなり、個々の神経細胞が果たす役割について調べることは容易でない。一方、今回研究に用いた線虫(C.エレガンス)(注3)は約300個の神経細胞しかもたないため、行動における個々の神経の役割を調べることができる。また学習・記憶ができない変異体の作製を行うことも容易である。
線虫は本来、食塩の味がすると食塩に近寄っていく性質を持つ。ところが、食塩に寄っていっても餌が得られないという経験をすると、その経験を記憶し、二度と食塩に寄っていかないようになる(図1)。我々はこの学習に異常を示す変異体を探索し、いくつかの学習異常変異体を獲得した。そのうちのひとつについて詳細に調べたところ、線虫のカルシンテニン(CASY-1)が異常になっていることを見出した。食塩と飢餓の情報を組み合わせた学習だけでなく、他のいろいろな種類の記憶・学習現象に必要であることがわかった。また高等動物のカルシンテニンと同様に、線虫の感覚神経細胞で作られたCASY-1たんぱく質は、細胞外に突き出た領域が切断を受け、細胞外に放出されることがわかった。さらに、その切断断片が感覚細胞自身、あるいはすぐ近くの細胞に働きかけることが、学習の調節に重要であることもわかった(図2)。
今回の研究は、アルツハイマー関連因子カルシンテニンが学習・記憶に必須であることを明らかにした世界で最初の報告である。また、これまで膜たんぱく質の細胞外断片が学習・記憶に重要な働きを持つことが報告された例はほとんどなく、その点でも新奇性がきわめて高い。今回の我々の発見は、ヒトを含めた高等生物の学習・記憶メカニズムの解明に大きく寄与するものと思われる。さらに将来的には、アルツハイマー患者の痴呆改善や、健常者の記憶力向上にも役立つことが期待される。
用語解説
- 老人斑
- 神経細胞間に蓄積されるしみ状の神経毒で、アルツハイマー患者に多くみられる。老人斑の主要な構成物質は、APPが切断されて作られるアミロイドβであることが知られている。↑
- 多型
- DNA配列にみられる個人差。近年、ヒトにおける多型と疾病との関連性が次々と明らかにされている。↑
- C.エレガンス
- 土壌に生息する非寄生性の線虫の一種で、正式名称はシノラブダイティス・エレガンス。古くから分子遺伝学的解析に用いられており、1998年には多細胞生物で初めて全ゲノム配列の解読が完了した。われわれヒトの遺伝子数にも匹敵する約2万個の遺伝子を持ち、それらの中にはヒトの遺伝子と類似のものが多く存在する。生命現象を制御する分子機構を解析する上で有用なモデル生物である。↑
論文情報
- 雑誌名:
- Proceeding of the National Academy of Sciences of the United States of America Daisuke D. Ikeda, Yukan Duan, Masahiro Matsuki, Hirofumi Kunitomo, Harald Hutter, Edward M. Hedgecock, Yuichi Iino
- “CASY-1, an ortholog of calsyntenins/alcadeins, is essential for learning in Caenorhabditis elegans”
- 2008年3月25日に、オンライン版に掲載