LHCでの発見へ向け世界最大コンピューティンググリッドが始動
発表者
- 小林 富雄(東京大学素粒子物理国際研究センター 教授、アトラス日本グループ共同代表者)
- 坂本 宏(東京大学素粒子物理国際研究センター 教授)
- 浅井 祥仁(東京大学大学院理学系研究科物理学専攻 准教授)
- 徳宿 克夫(高エネルギー加速器研究機構素粒子原子核研究所 教授、アトラス日本グループ共同代表者)
概要
ジュネーブ郊外にある欧州合同原子核研究機構(CERN)(注1)で建設中の大型ハドロン衝突型加速器(LHC)(注2)がいよいよこの夏完成し、史上最高エネルギーの素粒子実験が開始される。これまで建設に14年の歳月を費やしたこの加速器は、現在の最高エネルギーを一挙に7倍(14 TeV)(注3)にまで高める性能を有する。LHCでの高エネルギー陽子・陽子衝突の反応を記録する巨大なアトラス測定器(注4)も完成に近づいており、実験開始に向けて調整を行っているところである。今後数年のうちに、素粒子の質量の起源ともいわれる未知の素粒子であるヒッグス粒子や、宇宙の暗黒物質の解明にもつながる超対称性粒子などの新発見が期待されている。
LHC実験では、これまでの素粒子実験とは桁違いに多量のデータが生成され、その解析を可能にするために、世界各国の研究機関をグリッドで接続した世界分散データ解析網の構築が必要となった。日本でも東京大学素粒子物理国際研究センターに、LHCコンピューティンググリッド(注5)のための地域解析センターを設置し、計算機システムの構築を進めてきた。
発表内容
背景
これまでの高エネルギー加速器などによる素粒子実験により、物質の最小単位である素粒子やそれらの間に働く力は、素粒子の標準モデル(注6)と呼ばれる理論でよく記述されることが知られている。しかしながら、この理論の重要な一要素であり、素粒子に質量を与える役目をもつといわれているヒッグス粒子(注7)が現在に至るまで発見されておらず、焦眉の問題となっている。また、重力も含めた全ての力を統一する可能性のある、究極の理論に必要とされる超対称性粒子(注8)も、宇宙の暗黒物質の観測から、存在する可能性が高まっている。同じく究極理論で要請される余剰次元(空間が3次元より高い可能性)(注9)の効果も、現在の高エネルギー加速器のすぐ上のエネルギー領域で見えてくる可能性が最近指摘され、ミニブラックホールが人工的に生成される可能性も出てきた。
LHCアトラス実験
これらヒッグス粒子や超対称性粒子を発見し、あわせてまったく未知の新粒子も探索しようというのが、CERNのLHC実験である。LHC加速器は、7 TeVのエネルギーまで加速した陽子同士を正面衝突させることにより14 TeVという、現在最高エネルギーの7倍の高エネルギー状態を作り出す装置で、CERN加盟国に日・米・露・カナダ・インドなどが協力して建設が進んでいる。そこで生成されるヒッグス粒子や超対称性粒子などを検出するためにアトラス実験とCMS実験(注10)の二つの国際共同実験が組織された。アトラス実験には、35ヶ国からの研究者約1800人が参加しており、日本のグループはアトラス実験に参加して、実験準備を進めてきた。
LHC加速器とアトラス測定器は、これまで約14年の歳月をかけて建設が行われてきたが、いよいよ今年の夏に完成し、実験が開始される見通しとなった。一方、LHC実験で生じるデータ量は、これまでの素粒子実験と比べ桁違いに大きなものであり、一研究機関の計算機ではとうてい処理できるものではない。そこで開発されてきたのが、コンピューティンググリッド技術を用いた世界分散データ解析網である。
アトラス実験では大量の実験データが生成される。15秒でDVD(1枚の容量5GB弱)がいっぱいになる勢いでデータが記録され続ける。1年間でDVDにして1,000,000枚分が蓄積されることになる。それらの解析に必要な計算処理能力も膨大になる。また、実験で生成されるデータを計算機シミュレーションで再現することは非常に重要な解析手法であるが、1事象のシミュレーションに最新のCPUで5分かかる。そういったシミュレーションを年間に数億事象分行う必要がある。
大量データを扱うコンピューティンググリッド
それらの大量のデータを解析するためには膨大な量の記憶装置と計算処理装置が必要になる。それらを実験参加国が平等に負担し提供する世界分散解析のスキームを採用した。CERNで生成された大量のデータは国際ネットワークを経由して各国の解析センターに転送され、そこで処理され保管される。このデータを利用する各国の研究者は世界中に分散したデータにネットワーク経由でアクセスして解析を行う。
このスキームを実現するために導入されたのがコンピューティンググリッド技術である。解析センターに設置された計算機群にグリッドミドルウエアと呼ばれるソフトウエアを導入することで、それらの計算機がある仮想的な単一の計算機システムの一部であるように見せることができる。利用者からは仮想的な計算機システムが見えており、その上でデータファイルを開き、プログラムを走らせる。ミドルウエアはそれらの利用者の要求を分析し、ファイルの実体を探し、空いた計算機を見つけてプログラムを走らせ、その結果を利用者に返す。
LHC加速器の実験チームは共同してコンピューティンググリッドを配備することを決め、WLCG(World-wide LHC Computing Grid)プロジェクトとしてグリッド配備を開始した。配備は2005年に本格的に開始され、現在では33ヶ国69研究機関を超えるサイトがCERNと交わした協定に基づいてグリッド解析センターを運用している。我が国では東京大学素粒子物理国際研究センターにグリッド拠点を設立しWLCGに計算機や記憶装置を提供している。WLCGは世界で最初の本格的な世界規模実用グリッドとしてグリッド技術の実証という観点からも注目されている。
グリッドでは広域ネットワークが非常に重要な役割を果たす。CERNや世界各国の主要な解析センターとのデータ転送、また、国内の大学等共同研究機関と東大の間のデータ転送にも国立情報学研究所(NII)が運用する学術情報ネットワークSINET3が使われる。この研究プロジェクトは国立情報学研究所と高エネルギー加速器研究機構(KEK)計算科学センターの強力な支援の元に進められている。
総合試運転の成功
アトラス実験では測定器の組み立てがほぼ完了し、信号の読み出しなどの調整作業が進められている。測定器を構成するセンサーの一つ一つが良好に動作し、それに接続された電子回路がそれらを正しく読み出し、オンライン計算機に転送することを、測定器を通過する宇宙線などがセンサーに誘起する信号を用いて確認している。
併行してデータ解析スキームが正しく機能することの確認も進んでいる。計算機シミュレーションで作られたデータを使って、実際にCERNから各国の解析センターまでデータがネットワーク上をスムースに流れ、計算資源を効率よく使って解析が行われることを確かめる演習を繰り返し行ってきた。
測定器から解析グリッドまでをすべて接続して総合試運転が2008年3月3日から3月10日まで行われた。宇宙線が測定器を通過する際に発生する信号を受けてオンライン計算機が測定器からデータを取りだし、グリッドにデータを送る。東大の解析センターへはパートナーとなるフランス・リヨンにあるIN2P3計算センターを経由してデータが転送されてくることを確認した。それらのデータを東大解析センターの計算機群を用いて解析することに成功した。
今回の総合試運転によって、測定器からデータ解析までの一連の流れを確認でき、今年夏の実験開始に向けて、アトラス実験の準備がほぼ整ったことになる。LHC加速器はこの後いよいよ前人未踏のエネルギー達成に向けて試運転を開始する。
アトラス日本グループとは、アトラス実験に参加している日本の研究者グループのことである。現在の参加メンバーは、次の15の研究機関に所属している:高エネルギー加速器研究機構、筑波大学、東京大学、首都大学東京、信州大学、名古屋大学、立命館大学、京都大学、京都教育大学、大阪大学、神戸大学、岡山大学、広島大学、広島工業大学、長崎総合科学大学。
用語解説
- 欧州合同原子核研究機構(CERN)
- ヨーロッパ諸国により設立された素粒子物理学のための国際研究機関。設立は1954年。所在地はスイスジュネーブ郊外。加盟国はヨーロッパの20カ国。 日本は、米国、ロシア等と共に、オブザーバー国として参加している。世界の素粒子物理学研究者の半数以上(約7000人)が施設を利用している。↑
- 大型ハドロン衝突型加速器(LHC、Large Hadron Collider)
- CERNで現在建設中の大型陽子陽子衝突装置。衝突エネルギーは世界最高の14TeVであり、TeV領域の物理を研究出来る唯一の施設である。2008年に稼働を開始する予定。LEPトンネルを再利用する。↑
- TeV(tera electron volt)
- エネルギーあるいは質量の単位。1eV(電子ボルト)は1個の電子が1Vの電位差で加速される時のエネルギー。1TeV = 1012 eV↑
- アトラス(ATLAS)実験
- A Troidal LHC Apparatusの略。LHCを用いた二大実験の一つで、世界中から約150の研究機関が参加する国際共同研究である。日本からも東京大学やKEKを始めとする15の大学・研究機関が参加。ヒッグス粒子や超対称性粒子の探索や研究など、素粒子物理最先端の研究を行うことが可能である。↑
- コンピューティンググリッド
- ネットワーク上に分散配置された計算機資源(計算機及びデータ蓄積装置等)を簡便に利用するための統合的手段。データ処理全般をネットワーク上の多数の計算機で自動的に実行できるようにし、手許の計算機があたかも巨大な計算機センターの端末であるかのように利用できるようになる。↑
- 標準理論(標準モデル)
- クォークとレプトンが物質の基本粒子であると考え、これらの間に働く相互作用は電弱統一理論と量子色力学で記述されるとする理論。量子色力学は、強い相互作用を記述する理論であり、電弱相互作用とは統一されていない。↑
- ヒッグス粒子と素粒子の質量の起源
- 標準理論では、W±やZ0粒子に質量を与えるために“ヒッグス粒子”が導入される。この粒子の導入により、W±やZ0のみでなくクォーク、レプトンらにも質量を与えることができる。しかし、ヒッグス粒子はその存在が確実と思われているにもかかわらず、未だ実験的に発見されていない。その質量は理論で予言することができない。LEP実験により115GeVから200GeVの間であることがほぼ確実となり、LHC実験での発見が期待されている。(GeVはギガ電子ボルトで、1GeV = 109 eV)↑
- 超対称性粒子
- 素粒子にはフェルミ粒子(スピンが半整数)とボーズ粒子(スピンが整数)の2種類がある。超対称性とは、これら2種類の間の対称性で、すべてのフェルミ粒子(ボーズ粒子)には、性質がまったく同じでスピンのみ異なるボーズ粒子(フェルミ粒子)の存在を要請する。すなわち、通常の素粒子に対応して、スピンが異なるパートナー(超対称性粒子)が存在するものと仮定する。一見、人工的に見えるこの対称性は、「時間とは何か」を考えていくと自然に導き出すことが出来る性質である。超対称性理論は、超対称性を仮定した理論で、素粒子の標準理論を超える有力な理論の一つである。標準理論では物理量が無限大に発散して意味がなくなってしまうのを、超対称性粒子の導入によって防ぐことができる。また、超対称性理論は、今のところ、重力をも含めた全ての相互作用を統一する可能性を秘めた唯一の理論である。↑
- 時空の構造と余剰次元
- アインシュタインの相対性理論によれば、物理学は3次元の空間と1次元の時間により記述される(4次元時空)。しかしながら、重力を含めたすべての力を統一する理論の記述には10次元ないしは11次元の時空が必要とされる。ではこれら余分な次元の構造はどうなっているのかが、大きな問題として浮かびあがっている。余剰次元の効果がLHCでミニブラックホールの生成という形であらわれる可能性も指摘されている。↑
- CMS実験
- Compact Muon Solenoidの略。ATLAS実験と同じ研究目的を持つ、LHCを用いた二大実験の一つ。↑