2008/2/5

癌細胞(HeLa細胞)中のトランス型不飽和脂質の発見

発表者

  • 濵口  宏夫(東京大学大学院理学系研究科化学専攻 教授)
  • 小野木智加朗(東京大学大学院理学系研究科化学専攻 修士課程1年)
  • 本山 三知代(東京大学大学院理学系研究科化学専攻 博士課程1年)

概要

東京大学大学院理学系研究科化学専攻の濵口宏夫教授と小野木智加朗、本山三知代両大学院生は、ヒトの癌由来の細胞株であるHeLa細胞(注1)中に、トランス型不飽和脂質(トランス型不飽和脂肪酸の誘導体)が局所的に高濃度で存在することを発見した。

発表内容

図1

図1:オレイン酸(シス、左)とエライジン酸(トランス、右)の構造

拡大画像

図2

図2:HeLa細胞のラマンスペクトル

拡大画像

図3

図3:ラマンマッピングによる出芽酵母の自然死過程

拡大画像

東京大学大学院理学系研究科化学専攻の濵口宏夫教授と小野木智加朗、本山三知代両大学院生は、ヒトの癌由来の細胞株であるHeLa細胞中に、トランス型不飽和脂質(注2)(トランス型不飽和脂肪酸の誘導体)が局所的に高濃度で存在することをラマン分光法(注3)により発見した。この発見の報告は、国際学術誌「Journal of Raman Spectroscopy」1月号に掲載される。

細胞中の膜の主要成分である不飽和脂質は、ごく少数の例外を除きシス型(注2)(シス型不飽和脂質)であると考えられており、例外においてもトランス型の含量は最大で10パーセント程度である。また、トランス型脂質は、その摂取が心臓疾患を引き起こす可能性が示唆されており、欧米においてはこれを含む食品について厳重な規制がなされるなど、食の安全の観点から近年注目されている。今回、濵口教授らのグループは、ヒトの癌細胞由来の細胞株であるHeLa細胞内において、空間局所的にトランス型不飽和脂質がシス型不飽和脂質と同程度の割合で存在することを発見した。この発見は、従来の生化学、分子生物学の常識、「生細胞内の不飽和脂質はシス型(シス型不飽和脂質)である」という常識、を完全に覆すものである。

濵口教授らの研究グループは2000年以降、ラマン分光による生きた細胞の物理化学的研究に取り組んでいる。これまでに、細胞分裂の過程で起こる細胞構造の分子レベル変化を世界で初めてその場観測することに成功した。また、生きた酵母細胞のミトコンドリア中に自ら「生命のラマン分光指標(注4)」と名づけたラマンスペクトル指標を発見し、この指標が細胞の呼吸・代謝活性を鋭敏に反映し、細胞の生死の判定に決定的な役割を果たすことを示して、全世界的に注目されている。同グループは現在、この「生命のラマン分光指標」を広く一般の細胞から検出する目的で、種々の生細胞のラマンスペクトル測定を行っているが、その過程で偶然に、HeLa細胞中にトランス型不飽和脂質が高濃度で存在することを見出した。今回の成果は、基礎科学研究における「セレンディピティー」の典型であると言える。

「セレンディピティー」による予期せぬ発見の常として、今回の発見もその真の学術的意義が明らかになるには、10年単位の長い時間を要するものと思われる。しかし、濵口教授らはすでに、細胞中の酸化ストレスが正常なシス型不飽和脂質をトランス型不飽和脂質に転換することを証明しており、癌細胞由来であるHeLa細胞中の大きな酸化ストレスが、高濃度のトランス型不飽和脂質の存在と関連する可能性を指摘している。ラマン分光による生細胞中の不飽和脂質の構造解析が、癌診断や癌の発生機構の解明に大きな役割を果たす可能性がある。また、酸化ストレスは老化との関連でも注目されており、ラマン分光が細胞中の酸化ストレスの大きさと老化度を直接的かつ定量的に結びつける新しい研究手法となることも期待される。

ラマン分光による生きた細胞の研究は、細胞内の生命現象を分子の構造に基づいて明らかにする「生細胞化学」と呼ぶべき新しい研究分野を開拓しつつある。今回の成果もその一環として位置づけられ、今後さらなる新しい発見につながるものと期待される。

用語解説

HeLa細胞
ヒト由来の癌細胞として最初に確立された培養細胞株。子宮頸癌の30代の女性から切り取られた腫瘍病変部位から培養に成功し、世界中で継代培養されている。ヒトの癌細胞のモデル細胞として多くの生化学、医学的研究で用いられている。
シス/トランス型不飽和脂質
炭素-炭素二重結合を含む化合物には、分子式は同じであるが原子同士の幾何学的位置関係が異なる2種類の幾何異性体が存在する。二重結合で結ばれた2つの炭素原子に結合する2つの置喚基(原子群)が二重結合に対して同じ側にあるものをシス異性体、反対側にあるものをトランス異性体という(図1)。不飽和脂質は炭素-炭素二重結合を含む脂質であり、生体膜の主要構成成分として生命機能発現に重要な役割を果たしていると考えられている。自然界に存在する不飽和脂質のほとんどがシス型脂質(シス型異性体)であるが、今回発見されたのはトランス型脂質(トランス異性体)である。最近食品安全上の問題から注目を集めているトランス型脂肪酸は、トランス型不飽和脂質の一種である。シス型不飽和脂質とトランス型不飽和脂質の間には幾何学的構造に違い(図1)があるため、構成する原子の種類と数が同じであるにもかかわらずその性質に大きな違いがある。
ラマン分光法
光の非弾性散乱であるラマン散乱(発見者であるインドの物理学者C. V. Ramanの名が冠されている)を用いて試料中に含まれる分子の構造を分析する手法。レーザーを物質に照射し、そこから散射されラマン散乱光を分光してスペクトルを得る。ラマン分光法は気体、液体、固体などの物質からヒトの組織まで、その適用範囲が極めて広い。また、時間と空間を分解した測定が可能なので、細胞など複雑な試料の局所構造とその変化の研究に威力を発揮する。ラマン散乱のスペクトル(ラマンスペクトル)は別名「分子の指紋」と呼ばれ、分子の構造を鋭敏に反映する。シス型不飽和脂質は約1655cm-1、トランス型不飽和脂質約1670cm-1にピークを与えるので、ラマンスペクトルによって容易に両者を区別することができる(図2)。
「生命のラマン分光指標」
濵口宏夫教授らによって発見された細胞の呼吸・代謝活性を鋭敏に反映するラマン信号。酵母のミトコンドリアで最初に発見され、現在酵母以外の細胞でもその存在が確認されつつある。生きた細胞のラマンスペクトルにのみ見られ、細胞死に先行し消失することがわかっている。例えば飢餓状態の出芽酵母の自然死の過程では、細胞死にともなう細胞内高次構造の崩壊に先立って、「生命のラマン分光指標」が消失することが示されている(図3)。将来的には、この指標を用いることによって、生細胞の活性(細胞がどの位元気か)を定量的に計測することができるようになると期待されている。

論文情報

Journal of Raman Spectroscopy(Wiley InterScience)1月号に掲載予定。