2007/11/8

哺乳類の匂いに対する好き嫌いは先天的に決まっていた

− マウスの脳内から先天的と後天的の2つの匂い情報処理回路を発見 −

発表者

  • 小早川 高(東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻 特任助教)
  • 小早川 令子(科学技術振興機構(JST) さきがけ研究者)
  • 坂野 仁(東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻 教授)

概要

遺伝子操作で鼻腔の嗅細胞を部分的に除去したマウス。猫の匂いを恐くないと誤解してしまう。

図1

図1:

a:嗅上皮は、背側(水色)と腹側(赤色)の2つのゾーンと呼ばれる領域に分かれている。嗅覚受容体は進化上異なるクラスIとクラスII(注8)と呼ばれる2種類のグループに分類できる。背側ゾーンではクラスIとクラスIIの両方の嗅覚受容体遺伝子が機能しているのに対して、腹側ゾーンではクラスIIの嗅覚受容体遺伝子のみが機能している。嗅球には似た種類の糸球が集まってドメインと呼ばれる構造を作っている。背側には背側ドメインI(緑)と背側ドメインII(青)が存在し、腹側には腹側ドメイン(赤)が存在している。同じ種類の嗅覚受容体遺伝子が機能している嗅細胞は、同じ糸球へ軸索を集中させている。図では、青・緑・赤の嗅細胞がそれぞれ同じ色の糸球へ集中して軸索を伸ばしている様子を示した。

b:餌の匂いを嗅いで誘引反応を示すマウスと、天敵であるキツネの分泌物の一成分(TMT(注9))の匂いを嗅いで恐怖反応(注10)を示すマウスの様子を撮影した。それぞれの匂い分子によって引きこされる糸球の活性化パターン(匂い地図)を模式的にあらわした。

図2

図2:

a:背側ゾーン除去マウスの作成 背側ゾーン特異的に機能するO-MACSプロモーターを使って、Cre組み換え酵素を背側ゾーン特異的に活性化させる。Cre組み換え酵素は▲で示すloxP配列を2つ見つけると、間にあるSTOP配列を切り取ってしまう性質がある。STOP配列が切り取られると初めて、神経細胞特異的にジフテリア毒素が活性化するようになる。従って、Cre組み換え酵素とジフテリア毒素が同時に活性化される、背側ゾーンの嗅細胞だけが選択的に除去される。

b:クラスII除去マウスの作成 クラスII特異的に機能するMOR23プロモーターを使って、Cre組み換え酵素をクラスII特異的に活性化させる。ジフテリア毒素が活性化したクラスIIの嗅細胞だけが選択的に除去される。

c:野生型マウス、背側ゾーン除去マウス、クラスII除去マウスの嗅球における糸球の形成 野生型マウスでは背側ドメインI(背側I ;緑)、背側ドメインII(背側II ;青)、腹側ドメイン(腹側;赤)の糸球が存在している。背側ゾーン除去マウスでは、背側ゾーンの嗅細胞が取り除かれることで、背側ドメインの糸球がなくなり、腹側ドメインのみが形成された。クラスII除去マウスでは、背側ドメインIのみが形成された。これらの除去マウスを使って、匂い地図の一部がなくなってしまった場合の匂い認識に対する影響を解析した。

図3

図3:小ビンの中にはキツネの肛門から分泌されるTMT溶液が入っている。野生型マウスはキツネの匂いを恐がってすくんでしまっている。背側ゾーン除去マウスはキツネの匂いを嗅げるにもかかわらず、全くキツネの匂いを恐がらない。

図4

図4:天敵の匂いに対して忌避行動を引き起こす脳内の神経回路。天敵の匂いは背側(青)と腹側(赤)の双方のドメインに存在する糸球クラスターを活性化させる。背側ドメインの糸球が活性化されたという情報は,嗅皮質を経由して, 分界条床核の中央領域の神経細胞を活性化させ,脳内のストレス経路(視床下部-下垂体-副腎経路)を活性化する。この神経経路が天敵の匂いに対する先天的な忌避行動や恐怖反応を引き起こす。これに対して,腹側ドメインの糸球が活性化されたという情報は,後天的な匂い学習を引き起こすと考えられる。背側ゾーン除去マウスでは背側ドメインの糸球が存在しないので、天敵に対する先天的な忌避行動を示さなくなってしまう。写真は背側ゾーン除去マウスが猫を恐がらずに近づいてしまう様子を撮影したものである。

これまで哺乳類が、匂いを嗅いだときにどのように反応するのかは後天的に決められると考えられてきた。我々は、遺伝子操作(注1)の手法を応用することで、哺乳類の匂いに対する情動や行動を先天的に決める脳内の神経回路が存在することを世界で初めて証明し、これまでの常識を覆した。

発表内容

人種によって匂いに対する好みが違うことなどから、これまでは哺乳類の匂いに対する情動や行動は、生育環境や生後の学習の影響を受けて後天的に決まると考えられてきた。これに対して、我々は、マウスの腐敗した食べ物や天敵の匂いに対する忌避行動が先天的に決められていることを世界で初めて実験的に証明した。鼻の奥にあって、匂いを感知している嗅細胞(注2)の一部を遺伝子操作(注1)の方法を応用して正確に取り除いたマウスは、腐敗した食べ物や天敵の匂いを正常に区別して関連学習することができるにもかかわらず、これらの匂いに対する忌避行動を全く示さなかった。この実験結果は、匂い分子を感知して後天的に関連学習をするための嗅細胞と、匂い分子の持つ意味を読み取って先天的な行動を引き起こす嗅細胞とが別々に存在していることを世界で初めて示すものである。我々の研究結果は、マウスの脳内の神経回路を人為的に改変することで、外界の刺激に対する情動や行動を自在に制御できる可能性を示す画期的な発見である。

(1)これまでの研究でわかっていた点

匂い分子は鼻腔の奥に存在する嗅細胞によって感知される。嗅細胞の先端部分には匂い分子に対する化学センサーとして機能する嗅覚受容体分子(注3)が存在している。嗅覚受容体分子と匂い分子が結合すると、嗅細胞が活性化して電気パルスを発生する。この電気パルスは、脳の嗅球(注4)に存在する糸球構造(注5)へと伝達される。嗅覚受容体はマウスでおよそ一千種類存在するが、一つの嗅細胞の中には一つの嗅覚受容体のみが選ばれて機能している。鼻腔には同じ種類の嗅覚受容体を選んだ嗅細胞が数万個存在するが、それらの嗅細胞は全て同じ糸球へと集中して軸索(注6)という神経線維を接続している。従って、鼻腔において匂い分子がどの嗅覚受容体と結合しているのかという情報は、嗅球においてどの糸球が活性化しているのかという情報へと変換される。糸球の活性化パターンは匂い地図と呼ばれており、脳は匂い地図の情報を読み解いて、匂いに対する情動や行動を引き起こすと考えられてきた(図1)。

(2)この研究が新しく明らかにしようとした点

これまでの嗅覚系の研究では、嗅細胞が嗅球へ軸索を伸ばし、正しい糸球へと接続する分子メカニズムの解明に主眼が置かれて来た。これらの研究によって、匂い情報を処理する神経回路というハードウェアを作り出すメカニズムの解明は大きく進んだ。しかし、嗅覚系の神経回路によって匂い情報がどのように処理されているのかというソフトウェアの問題を解明する研究は不十分であった。従って、嗅球の匂い地図の情報を脳がどのように読み解き、情動や行動を引き起こしているのかという根源的な問題はこれまでほとんど明らかにされてこなかった。そこでわれわれは、嗅球の一部の神経回路を遺伝子操作の手法を応用して意図的に除去した“神経回路改変マウス”を作成し(図2)、匂いに対する行動を解析するという新しい方法を用いた研究を行うことで、脳が情動や行動を引き起こすメカニズムに迫る研究を行った。

(3)そのために新しく開発した方法、機材等

従来から、特定の遺伝子が脳の機能に対して果たす役割を解明するために、ノックアウトマウス(注7)と呼ばれる特定の遺伝子を破壊したマウスが頻繁に用いられてきた。ノックアウトマウスの方法によって、特定の遺伝子が脳の機能に対して果たす役割が明らかにされてきた。しかし、脳の中の神経回路が機能を果たすためには多数の遺伝子が必要であることと、逆に、一つの遺伝子であっても脳の様々な神経回路で使い回されていることを考えると、ノックアウトマウスを使った脳の機能の解析は、一つ一つの遺伝子の機能解析には向いているものの、数多くの神経細胞から構成される機能的な回路の持つ意味を解明することは極めて困難であった。

また、脳の一部の領域を薬剤の注入によって破壊した動物の行動を解析することや、脳損傷の患者の症状を観察することで、脳には領域ごとに機能的な分担があることが明らかにされてきた。しかし、これらの方法では脳の狙った領域を正確に機能阻害することは困難である。ましてや、一つ一つの神経細胞レベルで機能阻害を行うことは不可能であった。そこで、我々は、遺伝子操作の手法を応用して、嗅覚情報を処理する神経回路の中から、自ら狙った神経回路のみで、ジフテリア毒素が作り出されるように遺伝子を巧妙にデザインした遺伝子操作マウスを作り出した。この遺伝子操作マウスでは、ジフテリア毒素が作り出された神経細胞のみが細胞死によって正確に除去され、脳や体の他の組織には全く影響が及ばない。従って、我々の新しい実験方法によって、哺乳類の脳の中の狙った神経回路のみを細胞レベルで正確に除去した際の、情動や行動への影響を調べるというこれまでの方法では不可能であった研究を行うことができるようになった。

(4)この研究で得られた結果、知見

野生型マウスは腐った食べ物や天敵から分泌される匂い分子に対して忌避反応を示す。腐った食べ物や天敵から分泌される匂い分子は、背側と腹側の両方の糸球を活性化させるので、嗅球の背側の糸球を除去したマウス(背側ゾーン除去マウス)でも、野生型マウスと同様にこれらの匂い分子を感知できるし、微妙な化学構造の違いを記憶したりすることもできた。しかし、背側ゾーン除去マウスは、野生型マウスとは違って、腐った食べ物や天敵から分泌される匂い分子に対する忌避行動を全く示さなかった(図3)。また、野生型マウスでは天敵の匂いを嗅がせた際に、脳内のストレス経路が活性化され、血中のストレスホルモン上昇するのに対し、背側ゾーン除去マウスでは天敵の匂いを嗅いだ際のこの様な反応が全く見られなかった。しかし、背側ゾーン除去マウスであっても、匂いを嗅がせた後に、痛みを与えて嫌悪感の学習をさせると、匂いに対する忌避行動を示した。逆に、腹側の糸球を除去したマウスは腐った食べ物の匂いに対して忌避行動を示した。これらの結果から、マウスの匂いに対する行動が先天的に決められていることが明らかになった。また、嗅球の背側の糸球は匂いに対する先天的な忌避反応を決定しており、腹側の糸球は匂いに対する学習に依存した後天的な反応を引き起こしていることが明らかになった(図4)。

(5)研究の波及効果

本研究では、哺乳類の匂いに対する情動や行動が、遺伝的なプログラムに従って先天的に制御されていることを世界で初めて証明した。マウスと同様に、ヒトの匂いに対する様々な反応も、嗅球の背側ドメインを介する神経回路によって先天的に決められていると考えられる。従って、背側ドメインを効率的に活性化させることで、ヒトの匂いに対する先天的な情動や行動を呼び起こし、感情に影響を与えたり、食欲を制御したりするという技術的な応用が考えられる。

本研究は嗅覚系の研究のみではなく、脳研究全般に非常に大きなインパクトを与えると考えられる。これまでの脳研究において、遺伝子操作の実験方法は、一つ一つの遺伝子の機能を突き止める為に用いられてきた。遺伝子は脳を構成する部品の一つであり、テレビや冷蔵庫などの工業製品に例えればボルトやナットに相当すると言える。ボルトやナットの機能をいくら突き詰めても、テレビや冷蔵庫が機能する原理を理解することが難しいように、一つ一つの遺伝子の機能をいくら詳しく調べても、脳が動作する原理を解明することは難しいのではないかと考えられてきた。我々の研究は、遺伝子操作の方法を応用して、従来のように一つ一つの分子の脳における機能を調べるのではなくて、一つ一つの神経回路が持つ機能的な意味を明らかにすると言う脳研究の新しい方法論を開発し、その成功例を示したという点で画期的である。この方法論は、嗅覚系のみではなく脳の様々な領域の機能を解明するために応用することが可能である。

これまで、意識・情動・記憶・行動などの哺乳類の脳の高次機能は非常に複雑なシステムによって成立しており、理解することは極めて困難であると考えられてきた。これに対して、我々は比較的シンプルな神経回路の改変操作によって、哺乳類の匂いに対する情動や行動を自在に操ることが可能であることを実験的に証明した。我々の研究結果は、哺乳類の脳の高次機能は、従来考えられてきたよりもずっとシンプルな原理に支えられている可能性を示しており、今後の脳研究の推進に非常に大きなインパクトを与えると考えられる。

用語解説

遺伝子操作
遺伝子は親から子へと受け継がれる遺伝的な性質を決める因子であり、2重らせん構造を持つDNAによって作られている。遺伝子操作とは、人工的にDNAの情報を書き換えてしまうことで、野生に生活する動物が本来持っていない遺伝的な性質を持たせる操作。
嗅細胞
匂いを感知するセンサーの機能に特化した神経細胞。嗅細胞は鼻の奥の粘膜層に繊毛と呼ばれる細い毛を突き出しており、この繊毛の表面に匂い分子をキャッチする嗅覚受容体タンパク質が存在している。
嗅覚受容体分子
嗅覚受容体分子は匂い分子をキャッチするセンサーとして機能する。嗅覚受容体遺伝子はマウスでおよそ1000種類、ヒトでおよそ350種類が存在している。一つの嗅細胞には一種類の嗅覚受容体遺伝子のみが選ばれて機能しており、残りの嗅覚受容体は不活性化されている。一種類の匂い分子は、複数の嗅覚受容体と様々な親和性で結合する。逆に、一種類の嗅覚受容体も、複数の匂い分子に様々な親和性で結合する。匂い分子と嗅覚受容体との多対多の対応関係があるので、数十万種類におよぶ匂い分子を嗅ぎ分けることができると考えられている。
嗅球
大脳の最も前方の部分に存在する脳の組織であり、嗅細胞がキャッチした匂い分子の情報が初めに伝達される領域である。匂い分子と嗅覚受容体との結合情報は、嗅球において糸球の活性化パターンの画像情報へと変換されている。
糸球
嗅細胞から伸びる軸索が、嗅球にある2次神経細胞と接続して情報伝達をするために形成される構造体であり、嗅球の表面に1000対存在している。一つの糸球には同じ種類の嗅覚受容体が機能している嗅細胞の軸索のみが集中して接続している。従って、それぞれの糸球の匂い応答の特異性は、接続している嗅細胞で機能している嗅覚受容体の匂い応答の特異性と密接な対応関係にある。
軸索
神経細胞の細胞体から伸びる神経線維であり、神経細胞が興奮して活性化するときに発生する電気パルスを伝達する為の電線のように機能する。嗅細胞は一本の枝分かれしない軸索を持っているので、一つの糸球のみに電気パルスを伝えることができる。
ノックアウトマウス
染色体の中から特定の遺伝子を狙ってDNAの情報を書き換えることで、その遺伝子が機能できないように遺伝子操作を行ったマウス。特定の遺伝子の機能を調べるために用いられる。
クラスIとクラスII嗅覚受容体
クラスI型の嗅覚受容体は魚類の嗅覚受容体とも類似しており、水に溶けやすい匂い分子をキャッチすることができる。クラスII型の嗅覚受容体は陸生動物に進化した後に加わった嗅覚受容体であり、水に溶けにくい匂い分子もキャッチすることができる。マウスは約100種類のクラスI嗅覚受容体と、約1000種類のクラスII嗅覚受容体を持っている。
TMT
キツネの肛門分泌線から分泌されるトリメチルチアゾリンと呼ばれる分子。マウスやラットはTMTの匂いを嗅ぐと恐怖反応を引き起こす。ごま油や炒った豆のような匂いがする液体。
恐怖反応
恐怖反応とは、マウスやラットが天敵であるキツネや猫の匂いを嗅いだときに起きる様々な反応である。天敵の匂いに対して起こす忌避行動や逃避行動、天敵の匂いを嗅いだ後のすくみ行動などがある。

論文情報

Nature(Article), 11月8日オンライン掲載、2007年11月22日紙面掲載予定