接着分子の組み合わせによる神経個性の分子コード化
発表者
- 坂野 仁(東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻 教授)
- 芹沢 尚(東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻 研究員)
概要
ヒトやマウスの脳では数千億個の神経細胞が互いに配線をはり巡らせて神経ネットワークを形成している。これら配線の先端、即ち軸索末端にはお互いを識別する合符があるはずである。今回この合符、即ちneuronal identity codeの分子実態が、嗅神経細胞を用いて明らかにされた。
解説

図1:嗅神経軸索の収斂と投射。
A.匂い情報の変換。嗅上皮(注3)に存在する個々の嗅神経細胞は、約千種類存在する嗅覚受容体遺伝子の中から一種類のみを選択的に発現する。また、発現する嗅覚受容体の種類によって、嗅神経細胞はその軸索を嗅球上に投射し、収斂させて糸球構造を形成する。ここでは、発現している異なる嗅覚受容体を赤、青、緑と異なる色で塗り分けてあり、それぞれが匂い分子の異なる官能基を認識することを示している。匂い分子を受容した嗅神経細胞は、その結合情報を電気信号に変換し、軸索を介して伝達された情報は嗅球上の糸球体の発火パターンとして表現される。
B.軸索投射の可視化。特定の嗅覚受容体(OR: odorant receptor)をlacZ遺伝子で標識した遺伝子組み換えマウスを作製すると、この受容体を発現する嗅神経細胞の軸索が嗅球上の特定の糸球構造に収斂して投射する様子をX-galの染色によって観察することが出来る。

図2:嗅覚受容体特異的かつ神経活動に依存して行われる軸索末端の選別。図では2種類の嗅覚受容体(OR)、OR-AとOR-Bを発現する軸索の収斂及び反発を模式的に示している。受容体の種類によって接着分子(Kirrel2/Kirrel3)や反発分子(ephrinA/EphA)の発現量が、神経活動依存的に制御されている。この図ではOR-Aが高い神経活動(high)を、OR-Bが低い神経活動(low)を示すと仮定している。
高等動物の脳では多数の神経細胞が互いに軸索を伸ばしてつながりあい秩序だった神経回路を形成している(シナプス形成)。しかしながら、多様な神経細胞の一つ一つが担う役割、即ち神経個性がどのように分子コード化されてシナプス形成が行われているのかについては殆ど解明されていない。我々はこの問題を解決するため、神経個性を特定し易いマウスの嗅覚系に着目し、嗅神経回路形成の分子基盤を明らかにすべく研究を行った。その結果、発現する嗅覚受容体(注1)の種類によって規定される嗅神経細胞の個性は、複数の接着分子と反発分子の組み合わせからなる分子コードとして軸索末端に表現されている事が判明した。今回の成果は、我々の脳における神経ネットワーク構築の際、軸索同士がどの様に互いを識別しあって回路形成を行っているのかという、脳科学の中心課題に光を当てたという意味で、その意義は極めて大きいと考えられる。
(1)研究の背景とこれ迄判っていた点
ヒトやマウスは約一千種類の嗅覚受容体を用いて複雑な匂い情報を受容している。鼻腔の奥に約一千万個存在する嗅神経細胞は、それぞれがたった一種類の嗅覚受容体を発現しており、検知された匂い分子の結合情報は電気パルスとして軸索を通って大脳前方に位置する嗅球(注2)へと入力される(図1A)。嗅球には、糸球体と呼ばれる構造が嗅覚受容体の種類に対応して約一千対あり、匂い情報の入力先になっている。例えば香水のような数多くの匂い分子を含む複雑な匂いは、約一千個の糸球体を素子とする電光掲示板のように、嗅球表面で糸球の発火パターンとして画像化され、それを脳が判断していると考えられている。この電光掲示板の素子である糸球体の配置、即ち匂い地図の形成については、嗅覚受容体が何らかの形で指令的に関与していると考えられて来た。ノーベル賞を受賞したコロンビア大学のAxelは、嗅覚受容体が匂い分子の嗅ぎ分けのみならず、投射位置の嗅ぎ分けまでをも行っていると考えている。更にロックフェラー大学のMombaertsらは、一千万本の軸索が一千束に仕分けられるプロセスについても、嗅覚受容体が軸索表面に発現して互いの相性を確かめあうのだと主張している。これについて我々は、嗅覚神経系のみが嗅覚受容体という便利なツールを回路形成に用いているとは考えにくいのではないか、即ち中枢神経系のネットワーク構築にはもっと普遍的な論理が存在するはずだと考え今回の研究を行った。
嗅覚系の研究はこれ迄、視覚系との対比において議論される事が多かった。視覚系では網膜に映し出された画像を2次元の連続マップとしてそのまま視蓋に投影している。一方嗅覚系の匂い地図は、糸球体という一千個の素子からなる不連続マップであり、この点が視覚系とは大きく異なっている。視覚系に見られる連続マップは、いくつかの軸索投射分子の濃度勾配によって形成される事が知られているが、最近の我々の研究により(Science 314, 657-661, 2006年10月27日号)、嗅覚系の匂い地図も濃度勾配を用いた連続マップとして、胎児期にそのプロトタイプが形成され、生後、不連続マップに移行する事が明らかにされている。今回のCellの論文は、発生段階で先ず形成される嗅覚系の連続マップが、その後どの様にして不連続マップに整形されるのかについても答えを与える事となった。
(2)この研究が新しく明らかにしようとした点
嗅神経細胞がその軸索を嗅球表面に存在する糸球体へと伸長する際、同じ種類の嗅覚受容体を発現する嗅神経細胞の軸索は同じ糸球体へと収斂する(図1B)。このように嗅覚系は、神経細胞の個性(neuronal identity)が、発現する嗅覚受容体の種類として明確に定義できることから、神経回路形成の分子機構を研究する上で優れたシステムを提供している。では、嗅神経細胞はどの様にしてその神経個性を軸索の投射及び選別に反映させているのであろうか。今回の研究で我々は、嗅神経の個性が軸索末端にどう分子コード化されているのかについて明らかにしようとした。
(3)新しく開発した方法等
本研究を進めるために我々は、様々に工夫を凝らした遺伝子操作マウスを作製した。中でも、一種類の嗅覚受容体遺伝子をほぼ独占的に発現するトランスジェニックマウスや、接着因子を強制発現する嗅神経細胞とそうでないものをほぼ半数ずつ作り出すモザイクマウスは、これ迄他のグループからは報告されていない我々独自のシステムである。
(4)この研究で得られた結果、知見
今回我々は軸索の接着性と反発性を制御する一連の分子が、個々の嗅神経細胞の持つ嗅覚受容体の種類に応じて固有な発現量を示し、いわば分子コードとして軸索末端に発現していることを突き止めた。軸索間の接着性を与える分子としては、新たにKirrel2及びKirrel3という2種類の接着因子が同定され、これらは接着性の異なる糊のような性質を持つことが示された。一方、異なる軸索間の反発性を生み出す分子としては、視覚系でよく研究されているEphA5及びephrin-A5が嗅神経細胞の軸索にも同定された。これら反発分子は水と油の様な関係にあり、異なる受容体を持つ軸索同士を反発させる(図2)。それでは嗅神経細胞の個性を決定するそれぞれの嗅覚受容体は、これら接着及び反発分子の発現量をどのように制御しているのであろうか。我々は嗅覚受容体を介した神経活動に注目した。嗅神経細胞において嗅覚受容体の受容した匂い情報は、イオンチャンネルであるCNGチャンネルを開くことにより電気信号へと変換される。我々はこのCNGチャンネルに欠陥を持つ変異マウスにおいて、Kirrel2及びEphA5の量が減少しKirrel3及びephrin-A5の量が増加していることを見出した。この観察は、個々の嗅神経細胞での神経活動に対応してこれら分子の発現量が正または負に制御されている事を示している。即ち、嗅覚受容体の種類によって規定される神経個性が電気信号の発生頻度に変換され、最終的には複数の接着分子の発現を制御する事により、それらの量と組み合わせという分子コードが軸索末端に表現されていたのである。
今回の研究はまた、感覚神経系の謎とされてきた連続マップと非連続マップのパラドックスにも光を当てた。嗅覚系では、神経活動に非依存的な大まかなマップの構築に加えて、神経活動に依存する軸索選別のプロセスのある事が明らかにされた。この神経活動に依存した後半のプロセスが、糸球体を素子とする非連続的マップの形成に重要な役割を果たしている。一方、胎児期に生じる神経活動非依存的なプロセスは、軸索誘導分子の濃度勾配を用いた連続的マップの形成であり、視覚系のそれと同じと見る事が出来る。従って嗅覚系では、胎児期に形成される大まかな連続マップが、出生後に生じる軸索の選別・収斂を通して不連続化され、成体で見られる糸球地図を完成すると考えられる。
(5)研究の波及効果及び今後の課題
嗅神経細胞は約一千種類の嗅覚受容体遺伝子の中から、1種類のみを選択的に発現することで個々の神経個性を確立している。本研究の成果より、嗅神経細胞の軸索投射には、嗅覚受容体分子の種類に連動してその発現量が制御される接着及び反発分子、更には軸索誘導分子が、神経個性を表現する分子コード(neuronal identity code)として軸索末端に表現されているという画期的概念が示された。
本研究の波及効果であるが、ここで得られた嗅覚系の一次投射に関する研究成果は将来神経系一般に敷衍出来る基本原理の一つとなる可能性がある。更に今後の課題として残されている二次投射に関する研究は、入力される情報の統合と分配という脳の高次機能の理解に道を拓くものとしてその展開が期待される。これら神経回路構築の研究は、システムバイオロジーとしてこれから大きな進展が見込まれ、脳における情報の演算のlogicsが解明されれば、コンピューターとの接続による脳と人工頭脳の直接的コミュニケーションも夢ではない。また臨床応用の観点からみても、嗅覚系の研究は再生医療に大きな可能性を含んでいる。今回の研究で扱った嗅神経細胞は、ヒトやマウスにおいて極めて例外的に常時再生を繰り返す神経細胞であり、これを用いた神経再生因子や神経幹細胞の研究は最近注目を集め始めている。これらの研究は脊髄損傷の治療や、打撲等によって引き起こされる嗅細胞軸索の切断の後遺症として知られる異嗅症の治療と解明などにその応用が期待される。
用語解説
- 嗅覚受容体:
- 嗅覚受容体は、嗅上皮に存在する嗅神経細胞で発現し、匂い分子の受容を行う膜タンパク質である。様々な匂い分子を識別するために、マウスでは約千種類の嗅覚受容体遺伝子が存在する。嗅覚受容体によって受容された匂い分子の結合情報は電気信号に変換されて脳へと送られる。この受容体遺伝子の発見により2004年にリンダ・バック博士とリチャード・アクセル博士がノーベル生理学・医学賞を受賞した。↑
- 嗅球:
- 大脳の前方部にある脳組織で、嗅神経細胞が嗅上皮で受容した匂い情報を受け入れる場所である。嗅球の表面には、嗅覚受容体の種類毎に糸球体と呼ばれる構造が約一千対用意されており、特定の受容体に結合した匂い分子の情報は軸索を介して嗅球へと伝えられ、対応する特定の糸球体を発火させる。↑
- 嗅上皮:
- 鼻腔の奥に存在する上皮で、約一千万個のとっくり形をした嗅神経細胞がびっしり並んでいる。個々の嗅神経細胞は約一千種類ある嗅覚受容体遺伝子の中から、一種類のみを相互排他的に発現しており、この受容体の種類が嗅神経細胞のidentity、即ち神経個性を規定している。↑
論文情報
Cell誌2006年12月1日号に掲載予定