2006/10/12

神経細胞ネットワーク形成における番地探し

− 嗅覚受容体に依存した嗅神経回路形成の分子機構の解明 −

発表者

  • 坂野 仁(東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻 教授)
  • 今井 猛(東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻 研究員)

概要

私たちは数十万種類ともいわれる匂い分子を識別し生活をしています。我々の研究は、匂い情報の識別の根幹をなす嗅神経回路がどのようにして出来るかを分子レベルで解明することに成功しました。この成果は、複雑な脳の神経回路形成の仕組みを解明する手がかりになると考えられます。

解説

図A

図A:嗅上皮に存在する個々の嗅細胞は、約千種類存在する嗅覚受容体遺伝子から一種類のみを選択的に発現する。また、発現する嗅覚受容体の種類によって、嗅細胞はその軸索を嗅球上に投射し、収斂させて糸球体構造を形作る。ここでは、発現している異なる嗅覚受容体を赤、青、緑と異なる色で塗り分けてあり、それぞれが匂い分子の異なる官能基を認識することを示してある。匂い分子を受容した嗅細胞は、その情報を電気信号に変換し、嗅球上の特定の糸球体の発火パターンとして表現する。

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図B

図B:特定の嗅覚受容体(OR)を発現する嗅細胞を標識した遺伝子組み換えマウスを作製すると、嗅細胞の軸索が収斂して嗅球上に投射する様子を観察することが出来る。

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図Cp

図C:嗅細胞の細胞膜上に存在する嗅覚受容体(OR)は、Gタンパク質を介してcAMPシグナルを生じる。嗅覚受容体が匂い分子を検出する際にはcAMPシグナルはCNGチャンネルを介して電気信号に変換されるが、軸索投射を制御する際にはPKAが主要な役割を担う。

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図D

図D:本研究の成果を模式的に示した。嗅球の前後軸に沿った軸索の投射位置は、個々の嗅覚受容体(OR)から入力されるcAMPシグナルの強度によって規定されている。

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ヒトやマウスは約1,000種類の嗅覚受容体(注1)、すなわち匂いセンサーを用いて様々な匂い情報を受容している。鼻腔に約一千万個存在する嗅神経細胞はそれぞれ一種類の匂いセンサーを発現しており、匂い分子の結合情報が電気パルスとして嗅神経細胞から伸びる軸索とよばれる電線を通って脳の前部に位置する嗅球へと伝達される。嗅球には、糸球体と呼ばれる、マメ電球をつけたソケットのようなものがあり、それぞれが約1,000種類の匂いセンサーの入力先になっている。糸球体は、約一千万本ある嗅神経細胞の軸索を、発現する受容体の種類に応じて受け入れている。たとえば、香水のように多様な匂い分子の組み合わせと量比からなる複雑な匂い情報は、約1,000個のマメ電球からなる電光掲示板の様に、嗅球表面の糸球の発火パターンとして画像化され、それを脳の中枢が識別していると考えられる。

(1)これまでの研究でわかっていた点

嗅細胞の軸索は、発現する嗅覚受容体の種類に依存して、嗅球上の特定の位置に収斂し、糸球体構造を形成することが知られていた(嗅覚受容体依存的)( 図A, B参照)。また、嗅細胞の軸索投射に際して、嗅球背腹軸方向の糸球の配置は、嗅細胞の嗅上皮における位置に強く規定されていることが分かっていた(嗅覚受容体非依存的)。

(2)本研究が新しく明らかにしようとした点

嗅細胞の軸索投射に際して、嗅覚受容体そのものの関与、および、嗅球前後軸方向の糸球の配置を規定するパラメーターについては、これ迄様々な憶測がなされていたが、全く未知であった。私たちはこれらの事象が嗅覚受容体を介したシグナルによって制御されているのではないかと予想し、研究を行った。

(3)そのために新しく開発した方法、機材等

上記の成果を得るために、特定の嗅覚受容体を発現する嗅細胞を蛍光タンパク質で標識して可視化しつつ、嗅覚受容体を介したシグナルの強度を変化させた遺伝子組み換えマウスを10数種類作成し、解析を行った。

(4)この研究で得られた結果、知見

嗅球上のどの番地の糸球に嗅細胞の軸索が収斂して投射するかという謎に対し、私たちは、嗅覚受容体分子そのものではなく、嗅覚受容体を介したシグナルが重要な働きを担っていることを世界に先駆けて明らかにした。詳細に記述すると、嗅覚受容体に共役するGsタンパク質が、シグナルに応じて異なる濃度のcAMP(注2)を産生し、これをcAMP依存的プロティンキナーゼAが感知して、CREB転写因子などを介し軸索ガイダンス分子の転写量を制御しているという研究成果を得ることに成功した(図C, D参照)。

(5)研究の波及効果および今後の課題

嗅細胞は約1,000種類の嗅覚受容体遺伝子から、1種類の遺伝子のみを選択的に発現することで個々のidentityを確立している。そして本研究の成果より、個々の嗅細胞で発現する嗅覚受容体の違いが、cAMPシグナルの強度という情報をものさしとして軸索の配線位置の違いに反映されている、という画期的概念が実証された。シグナル強度が軸索ガイダンス分子の発現レベルに変換されている、という点も重要な発見である。ここで得られた研究成果は、嗅覚系における匂い情報処理の理解に大きな進歩をもたらすのみならず、一般の神経細胞のidentityがシナプス形成に際してどの様なlogicsに変換されるのか、という神経科学全般の重要課題にヒントを与えるという意味で大きなインパクトを持つ。

今回の発見は一千万本もある嗅神経細胞の軸索という電線の先端が、どの様にして自分が接続すべき嗅球表面の糸球、すなわちマメ電球のソケットを探し当てるのかという、神経軸索の番地探しの謎に答えを与えるものとして重要である。この発見は、また神経細胞の電線がどの様につなぎ合わせられるのかという、中枢神経系の回路形成の仕組みを解き明かす上でも極めて重要性が高い。

用語解説

嗅覚受容体:
嗅覚受容体は、鼻の奥の嗅上皮に存在する嗅細胞に存在し、無数の匂い分子を受容するタンパク質である。多くの匂い分子を識別するために、哺乳類では約千種類もの嗅覚受容体遺伝子が存在することが分かっている。嗅覚受容体を介して匂い分子を受容した嗅細胞は活性化し、その情報を電気信号に変えて脳へと送る。嗅覚受容体を発見したL.B.バック博士とR.アクセル博士は2004年にノーベル医学・生理学賞を受賞している。
cAMP:
サイクリックAMP(c-AMP、環状アデノシン3', 5'一リン酸)は、特異的受容体への結合を介して発現する各種ホルモンや神経伝達物質の生理作用のsecond messengerとして重要な役割を果たす物質である。細胞膜に局在するアデニル酸シクラーゼにより、ATPから合成され、細胞の代謝機能の調節、分泌、神経などの刺激伝達に関与している。

論文情報

Science誌 2006年9月21日にオンライン先行掲載(doi: 10.1126/science.1131794)
Takeshi Imai, Misao Suzuki, and Hitoshi Sakano
“Odorant Receptor-Derived cAMP Signals Direct Axonal Targeting.”