反物質と物質の「化学反応」を見る
発表者
- 早野龍五(東京大学大学院理学系研究科物理学専攻 教授)
- 船越 亮(日本学術振興会特別研究員(早野研) 在CERN(ジュネーブ))
概要
われわれをはじめとする国際研究チームは、CERN 研究所において、反陽子(p) と水素分子イオン(H2+) が反応を起こして反陽子水素原子(pp)と水素原子が生じる様子を可視化することに成功しました。反物質と物質の「化学反応」が観測されたのは世界で初めてです。今回の実験で解明された反応の様子と理論予想とには食い違いがあり、この発見を機に少数粒子系の衝突反応の定量的解明が進むと期待されます。
なお、これは科学研究費補助金・特別推進研究「反水素原子の分光」(研究代表者・早野龍五で得られた成果です。
解説
詳細
反物質と物質の化学反応、というタイトルから、「試験管の中で反物質と物質を混ぜたら大爆発が起きて危険なのではないか」との懸念をもたれる方もあるかもしれませんが、心配はご無用。私たちが発見した反応は、真空中で反陽子(注1)(反水素イオン)と水素分子イオン(H2+)が衝突して、反陽子水素原子(pp)(注2)と普通の水素原子(H)ができる、すなわち
p + H2+ → pp + H
という反応です。反物質と物質の化学反応の観測に成功したのは、これが世界で初めてです。この反応で生じた反陽子水素原子は、寿命約マイクロ秒(百万分の一秒)で陽子と反陽子が対消滅してπ中間子などを放出します。我々は高精度のシリコン飛跡検出器で中間子の発生点分布を可視化し、反応の詳細を解明しました。
背景
2002年、我々はCERN研究所(注3)の反陽子減速器(注4)のATHENA(注5)国際共同実験装置を用い、反水素原子(注6)の大量生成に成功して、世界的に注目されました。その際我々が用いた方法は、電磁トラップ(電場と磁場で荷電粒子を閉じ込める装置)に反陽子と陽電子を低温環境下(絶対温度15K)で閉じ込めておき、両者を混合することで反水素原子を生成するというものです。反水素原子は、電気的に中性なためトラップから飛び出し、トラップ電極の壁に衝突して消滅します。我々はその消滅点をシリコン飛跡検出器で再構成することにより、反水素原子が生成したことを証明しました。
図1の右に示すのは、ATHENA測定器によって記録された反陽子消滅点の分布です。消滅点が直径2.5cmの電極壁付近に分布していることがわかります。しかしよく見ると、トラップを正面からみた際にその中央付近にも反陽子の消滅点が分布しています。このことはATHENA実験の初期段階から分かっており、我々はこの部分からの寄与を「バックグラウンド」として差し引いていました。
ところが、更に詳細を解析してみると、図1の左に示すように、「バックグラウンド」と考えられていた部分は、トラップを横から見た際その中心部分から電極に向かってビーム軸方向に狭い範囲に分布していることが分かりました。あたかも、トラップ中心で反陽子を含む中性の糸が生成され、それが電極に向かって飛行するうちに壁に到達する前に有限の寿命で消滅しているように見えるのです。
この「中性の系」が何であるか解析を進めた結果、トラップ中で
p + H2+ → pp + H
という反応が起きて、寿命約1 マイクロ秒を持つ反陽子水素原子の励起状態(主量子数n~70)が作られているこが明らかとなりました。
反水素原子は、反物質である反陽子と陽電子とから形成されているので、孤立している限り安定ですが、反陽子水素原子は、物質である陽子と反物質である反陽子とからなる系なので、他の粒子と遭遇しなくても、短時間に対消滅するのです。
反応の過程を図2 に模式的に示します。トラップ内は温度15 K で10-11mbの高真空ですが、トラップに反陽子および陽電子を打ち込む際に残留ガス(水素分子) が電離されてH2+イオンが作られます。これが陽電子とともにトラップされ(質量が大きいためにトラップを横からみた際、より中心に近い範囲に捕まる)、ここに反陽子を数eVのエネルギーで打ち込むと、反水素原子生成の副産物として上記の反応で反陽子水素原子が真空中に作られるのです。
意義
今回我々が発見した反応は、反陽子1個、陽子2個、電子1個、都合4個の素粒子が関与する比較的単純な反応です。この反応がどのように起きるかについては、理論的な予言がなされており、それによると反陽子水素原子は主量子数n~30の励起状態に作られるとされています。これは我々の実験結果と大きく異なります。このような基本的な少数素粒子の反応でも、実験と理論が食い違うことが示されたことで、今後少数素粒子の衝突反応定量的解明が進むと期待されます。
また、真空中に生成された長寿命の反陽子水素原子をレーザー分光等の手法で精密に研究することで、陽子質量の精密測定等、基礎物理定数の研究への展開も期待されます。
用語解説
- 反陽子:
- 陽子の反粒子。マイナスの電荷を持つ。チェンバレンとセグレらによって約50年前に発見された。↑
- 反水素原子:
- 通常の水素原子は、電荷+1の陽子のまわりを電荷-1の電子が回っているが、反水素原子は電荷1-の反陽子のまわりを電荷+1の陽電子が回っている。↑
- CERN:
- 欧州合同原子核研究機構。ジュネーブ郊外にある世界最大の素粒子物理学研究所。↑
- 反陽子減速機:
- 世界唯一の低速反陽子発生装置。シンクロトロンで260億電子ボルトに加速した陽子を金属標的にぶつけて反陽子を生成し、これをリングで捕獲して500万電子ボルトまで減速する。反陽子ヘリウム原子や反水素原子の生成には、低速の反陽子が必須である。↑
- ATHENA:
- CERNの陽子減速器において反水素生成をめざして設立された国際共同実験。早野は設立主要メンバーの一人であり、今回の論文執筆でも中心的役割を果たした。ATHENA は所期の目的を達成したため発展的に解消され、現在は反水素原子の分光をめざした第二世代実験ALPHA が行われている。↑
- 反陽子水素原子:
- 反陽子(p)と陽子(p) がクーロン力で束縛された系。陽電子(e+) と電子(e-) の束縛系をポジトロニウム(positronium) と呼ぶのにならって、ppをプロトニウム(proto-nium)と呼ぶこともある。↑
論文情報
- 雑誌:
- 米国物理学会のPhysical Review Letters誌の10月12日号(オンライン版)に掲載予定
- 著者:
- N.Zurlo, M. Amoretti, C. Amsler, G. Bonomi, C. Carraro, C.L. Cesar, M. Charlton, M. Doser, A. Fontana, R. Funakoshi, P. Genova, R.S. Hayano, L.V. Jorgensen, A. Kellerbauer, V. Lagomarsino, R. Landua, E. Lodi Rizzini, M. Macr`., N. Madsen, G. Manuzio, D. Mitchard, P. Montagna, L.G. Posada, H. Pruys, C. Regenfus, A. Rotondi, G. Testera, D.P. Van der Werf, A. Variola, L. Venturelli,Y. Yamazaki (ATHENA Collaboration)
- タイトル:
- “Evidence the Production of Slow Antiprotonic Hydrogen in Vacuum”
(低速の反陽子水素原子の真空中での生成の証拠)