2006/6/9

反陽子質量を10桁測定することに成功

− 物質と反物質の質量は何桁まで一致するか −

発表者

  • 早野 龍五(物理学専攻 教授)
  • 堀  正樹(日本学術振興会特別研究員(早野研究室))

概要

図1

陽子-電子質量比(黒: CODATA 推奨値)と反陽子-電子質量比(赤:東大)の比較

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図2

反陽子ヘリウム原子

陽子の質量は電子質量の約1800倍。理科の授業で学ぶように、物質の構成要素である陽子と電子の質量比は、自然界の重要な基本定数です。今回私たちは「光周波数コム(櫛)」という技術を使って、陽子の反粒子である「反陽子(注1)」と電子の質量の比率を、1836.152674±0.000005という世界最高の精度で決定することに成功しました。この実験結果により、物質と反物質の質量が9桁まで一致することが確認されました。

光周波数コムは、2005年ノーベル物理学賞の対象になった、光の振動数を精密測定する装置です。私たちはこの光周波数コムを発展させて反陽子が入った特異な原子の分光を行い、その質量を決定する手法を確立しました

なお、これは科学研究費補助金・特別推進研究「反水素原子の分光」(研究代表者・早野龍五)で得られた成果です。

解説

背景

反物質は、約70年前にディラックがその存在を予言して以来、物理学における基本的な問題のひとつとして研究が続けられてきました。特に、物質と反物質の対称性(たとえば両者の質量は厳密に等しいかなど)の研究は、素粒子物理学の理論の根幹に関わる重要問題です。陽子と反陽子の質量比較や、水素原子と反水素原子のスペクトルの比較などの反物質研究がきわめて重要であることから、CERN(注2)研究所は1997年より、日本、ドイツ、イタリア、米国などの協力を得て反陽子減速器(注3)を建設し、2000年より反物質研究を推進してきました。

一方、私たちは「反陽子ヘリウム原子」(通常のヘリウム原子の二個の電子のうち一個を反陽子で置換したもの)という奇妙な原子を発見し、これにレーザー光を照射することによって、その性質を詳細に調べてきました。最近では反陽子ヘリウム原子のレーザー分光で反陽子質量を精密に決定できるようになり、様々な工夫を凝らすことで、反陽子質量の精度が陽子質量の精度に匹敵するレベルに到達したのです。

反陽子質量の求め方

反陽子ヘリウム原子の中では、反陽子がヘリウム原子核のまわりをまわる軌道に入っています。私たちのこれまでの研究で、この原子に特定の周波数をもった光をあてると、共鳴を起こして反陽子が別の軌道へ飛び移ることがわかってきました。共鳴周波数の値はスーパーコンピュータを用いた数値計算によって理論的に予言できますが、この際に反陽子と電子の質量比が入力データとして使われます。逆に言えば、共鳴周波数を実験的に測定して、これを理論値と比較することで、反陽子と電子の質量比を求めることができます。

今回の論文では、我々が測定した反陽子ヘリウムの共鳴周波数と、ロシアのKorobovの計算結果との比較から反陽子と電子の質量比(注4)を決定しました。

光周波数コム(櫛)

今回の実験では、反陽子を減速し、低温低密度のヘリウム標的に打ち込むことで、反陽子ヘリウム原子を生成しました。これに光周波数コムを使って生成した、極めてエネルギーの揃ったレーザー光線を照射しました。

光周波数コムは、光学周波数領域に櫛の歯のように規則正しい「目盛り」をいれ、光の振動数を原子時計の精度で直読できるようにする画期的な装置です。この発明により、T. W. Hänschは2005年のノーベル物理学賞を受賞しました。
私たちが使用している周波数コムは、加速器実験の過酷な環境でも何ヶ月にもわたって安定稼働するよう、Hänschグループが設立したメンロ・システムズ社の協力を得て開発したものです。

意義

今回我々は、反陽子と陽子の質量が9桁まで一致することを示しました。これは、物質・反物質対称性検証として最高精度の結果です。今のところ、物質・反物質の質量の違いを定量的に予言する理論はありませんので、今後どこまで精度を上げれば陽子・反陽子の質量差が検出できるかはわかりませんが、すでに反陽子質量精度が陽子質量精度に近づいているのですから、今後は陽子の質量精度の向上も必要であることは明らかです。

一方、9-10桁という程度で質量の違いが現れることはないという立場に立つならば、反陽子質量精度が、陽子質量精度を凌駕すれば、基礎物理定数表の陽子質量値に反陽子の値が採用されるかもしれません。事実、すでに我々のところにCODATA(注5)のタスクグループから今回の結果に関する問い合わせが来ています。

用語解説

反陽子:
陽子の反粒子。マイナスの電荷を持つ。チェンバレンとセグレらによって約50年前に発見された。
CERN:
欧州合同素粒子原子核研究機構。ジュネーブ郊外にある世界最大の素粒子物理学研究所。
反陽子減速器:
世界唯一の低速反陽子発生装置。シンクロトロンで260億電子ボルトに加速した陽子を金属標的にぶつけて反陽子を生成し、これをリングで捕獲して500万電子ボルトまで減速する。反陽子ヘリウム原子や反水素原子の生成には、「遅い」反陽子が必須である。
陽子と電子の質量比:
2002年に発表されたCODATAの推奨値は1836.15267261±0.00000085となっています。
CODATA:
科学技術データ委員会(Committee on Data for Science and Technology)。CODATAタスクグループでは、1973年、1986年、1998年、2002年に基礎物理定数の推奨値を発表している。理科年表等に掲載されている数値のもと。

論文情報

米国物理学会の Physical Review Letters 誌の6月19日号に掲載:
M. Hori, A. Dax, J. Eades, K. Gomikawa, R. S. Hayano, N. Ono, W. Pirkl, E. Widmann, H. A. Torii, B. Juhász, D. Barna, and D. Horváth, "Determination of the Antiproton-to-Electron Mass Ratio by Precision Laser Spectroscopy of ", Physical Review Letters 96, 243401 (2006)