気体分子の向きの完全制御に成功
発表者
- 酒井 広文(物理学専攻 助教授)
- 峰本 紳一郎(物理学専攻 助手)
概要
通常はランダムな向きを向いている気体分子の向きを完全に制御できることの実証に世界で初めて成功した。気体分子集団の中の個々の分子は激しく回転しており、そのような分子試料を用いて実験を行っても、分子の向きに依存する効果については空間的に平均された結果しか得られない。したがって、気体分子の向きを揃えることは、レーザー光と分子の相互作用や化学反応ダイナミクスの研究を始め、分子構造の非等方性に由来する様々な研究を行う上で重要な実験技術である。今回、静電場と楕円偏光したレーザー電場を併用し、2種類の相補的な実験技術を巧みに利用することにより、分子の頭と尻尾も区別して3次元空間内で分子の向きを完全に制御できることを世界で初めて実証した。
解説

図1:次元および3次元の配列と配向を説明する図。分子の頭と尻尾を区別せずに分子軸あるいは分子面を揃えることを配列(alignment)と呼び、頭と尻尾も区別して揃えることを配向(orientation)と呼ぶ。

図2:3次元配向の実現と検証を行うための2種類の測定を説明する図。3次元配列が実現していることは、2次元イオン画像化法を用いて確認できる(左図)。DBT分子が配向もしていることの確認は、TOFスペクトルを解析することにより行う。試料として、3,4-ジブロモチオフェン(DBT)分子を用いた。

図3:色々な楕円率のYAGレーザー光(3 x 1012 W/cm2)を用いて得られたBr+イオン(上段)とS+イオン(下段)のイオン画像。図中の(para)と(perp)の記号は、楕円の長軸が検出器面にそれぞれ"平行"と"垂直"であることを示す。

図4:YAGレーザー光(3 x 1012 W/cm2)を用いた時(黒色)と用いない時(灰色)に観測されたTOFスペクトル中のS+イオンの信号。YAGレーザー光を用いた時、forwardの信号がbackwardの信号よりも大きくなっている。これは、DBT分子がS原子を検出器方向に向けて配向していることを示すものである。静電場と背圧は、それぞれ760V/cmおよび8気圧であった。
1.これまでの研究で分かっていた点
近年、汎用性の高い気体分子の操作技術として、高強度レーザー電場とそれによって分子中に誘起された双極子モーメント(注1)との相互作用、すなわち、分子軸がレーザー光の偏光方向に向くように働くトルクを利用した手法が主流となっている。フリードリヒとハーシュバッハ(ハーバード大学)の理論研究の後、直線偏光を用いた1次元配列と楕円偏光(注2)を用いた3次元配列が実現している。ここで、1次元とは、3次元空間で分子の向きを規定するオイラー角と呼ばれる3つの角(注3)のうちの一つを制御することを指し、3次元とは3つの角の全てを制御することを意味する。一方、分子の頭と尻尾を区別する配向の実現には、誘起双極子モーメントとレーザー電場との相互作用に加え、永久双極子モーメントと静電場との相互作用を併用する必要があり、既に酒井広文研究室では1次元配向の原理実証実験に世界で初めて成功し、米国物理学会誌Physical Review Letters等で発表した(Hirofumi Sakai, et al. "Controlling the orientation of polar molecules with combined electrostatic and pulsed, nonresonant laser fields," Phys. Rev. Lett. 90, 083001 (2003))。図1に1次元および3次元の配列と配向を説明する図を示した。
2.この研究が明らかにしようとした点
本研究室が世界をリードするレーザー光による気体分子の操作技術をさらに発展させ、分子の頭と尻尾も区別して3次元空間内で分子の向きを完全に制御できることを世界で初めて実証することを目標とした。
3.そのために新しく開発した手法
静電場と永久双極子モーメントの相互作用と楕円偏光したレーザー電場と誘起双極子モーメントとの相互作用を併用した。3次元配向の検証には、イオンの角度分布を直接検出できる2次元イオン画像化法とイオンを質量と電荷の比で分離できる飛行時間(TOF)型質量分析法を相補的に用いる独自の実験手法を採用した。
4.この研究で得られた結果および知見
実験系の概略を図2に示す。配向を実現するための静電場にはTOF型質量分析器のイオンの加速電場を用い、楕円偏光したレーザー電場にはNd:YAGレーザー光(波長 1064 nm、パルス幅〜12 ns、ピーク強度〜1012 W/cm2)を用いた。また、試料には、3,4-ジブロモチオフェン(DBT)分子(図2参照)を用いた。3次元配向の様子を調べるために、Nd:YAGレーザー光のピーク強度付近でフェムト秒チタンサファイアレーザー光(波長〜800 nm、〜50 fs、〜1015 W/cm2)を照射し、分子の多価イオンを生成した。クーロン反発力で瞬時にばらばらになったBr+イオンやS+イオンの飛び出し方は、チタンサファイアレーザー光が照射された瞬間の分子の向きを反映する。したがって、これらのイオンを観測すれば、3次元配向の様子を調べることができる。
まず、3次元配列が実現していることを、2次元イオン画像化法を用いて確認した(図2左)。典型的なイオン画像を図3に示す。Nd:YAGレーザー光を照射しない時は、分子がランダムな向きを向いていることを反映して、Br+イオンやS+イオンの分布は等方的となる。一方、楕円偏光したNd:YAGレーザー光を照射すると、両イオンが楕円偏光面に沿って集中する様子が観測された。円偏光を含む色々な楕円率を用いたり、楕円偏光の長軸の向きを検出器面に平行にしたり垂直にしたりすると、それに応じてイオンの分布が変化する様子も観測できた。
DBT分子が配向もしていることの確認は、TOF装置を用いて得られた信号(TOFスペクトルと呼ぶ)を解析することにより行なわれた(図2右)。一般に、TOF軸と平行に直線偏光したフェムト秒レーザー光を用いて分子の多価イオンを生成すると、ばらばらになって飛び出したイオンの初速度が検出器方向(forwardと呼ぶ)と逆方向(backwardと呼ぶ)の2つのピークが観測される。分子がランダムな向きを向いているか、配列のみが実現している場合には、forwardとbackwardのイオン量は等しいが、TOF装置中の静電場の効果により配向が実現すれば、forwardとbackwardのイオン量に違いが見られるはずである。DBT分子の永久双極子モーメントの向き(a軸上のS原子方向)と検出器方向の静電場の向きを考慮すると、配向が実現すれば、S+イオンのforwardのイオン量は、backwardのイオン量よりも増大すると予想され、図4に示すように実際に予想どおりの結果が観測された。分子の配向度を増大するためには、Nd:YAGレーザー光のピーク強度や静電場の強さを増大するか、分子の初期回転エネルギーを下げれば良い。
5.研究の波及効果
分子の頭と尻尾も区別して3次元空間内で分子の向きを完全に制御できることを世界で初めて実証できたことは、レーザー光を用いた分子操作の研究で一つの区切りとなる大きな成果である。この技術を用いれば、1次元配向技術ではできなかった、曲った分子や分子面を持つ分子などの向きも完全に規定することができる。分子の向きが完全に規定された試料は、レーザー光と分子の相互作用や化学反応ダイナミクスの研究を始め、分子構造の非等方性に由来する様々な研究を行う際の理想的な試料となる。したがって、分子科学研究における、今回の成果の意義は極めて大きい。
6.今後の課題
今回行った実験は、分子の回転周期に比べてレーザー光のパルス幅が十分長い状況(断熱領域と呼ぶ)で行われたものである。断熱領域の実験では、分子の配列や配向はレーザー光の強度に追随してゆっくり進み、レーザー光が通過すると初期状態に戻る。一方、分子の回転周期に比べてレーザー光のパルス幅が十分短い状況(非断熱領域と呼ぶ)では、1次元配列のみが実現している。非断熱領域の実験では、超短パルスレーザー光の通過後に、分子の回転周期とその半周期などで分子配列が実現する。従って、高強度レーザー電場が存在しない状況で分子配列を実現できるメリットがあるが、配列を維持できる時間が短いなどの制約もある。断熱領域と非断熱領域の分子操作は、対象とする試料分子と応用実験に応じて、相補的に使い分けられるべきものである。非断熱領域における、3次元配列および1次元配向と3次元配向の実現と配列度や配向度の定量的評価は今後の課題である。これらの実現により応用研究の可能性がさらに広がるものと期待される。
7.発表雑誌
今回の成果は、米国物理学会誌 Physical Review A の12月号に掲載された。
Haruka Tanji§, Shinichirou Minemoto, and Hirofumi Sakai, "Three-dimensional molecular orientation with combined electrostatic and elliptically polarized laser fields," Phys. Rev. A 72, 063401 (2005).
§丹治はるか(元 東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程 酒井広文研究室、現 ハーバード大学大学院)
用語解説
- 双極子と双極子モーメント:
- 有限の距離だけ離れた正負の電荷の一対を一般に双極子と呼ぶ。NO分子やOCS分子の様に非対称な分子は結合の性質に起因する固有の双極子を持ち、これを永久双極子と呼ぶ。また、強いレーザー電場によって分子中に生じた電荷の偏りに起因するものを誘起双極子と呼ぶ。双極子モーメントは、双極子の大きさと向きを表すベクトル量である。↑
- 偏光:
- レーザー光の進行方向に垂直な面内で、電場が直線運動および楕円運動をする時、その光をそれぞれ直線偏光および楕円偏光と呼ぶ。↑
- オイラー角:
- 3次元空間に固定した座標系から、分子に固定した座標系がどのように回転したかを表すために用いられる3つの角度をオイラー角と呼ぶ。↑